鴨林軒ハテナ支店

文芸同人の鴨林軒です。

【戯曲】饗宴 第一幕(広瀬喜六)

後輩:学部一年生の美大生。洒落っ気のない機能性重視の服。顔立ちは中性的で柔和な体つき。身長は決して低くない。髪も伸びなりになっていて、男ならば長いが、女ならば短いくらい。ゴムで後ろにわずかにまとめている。ブルーライトカットの伊達眼鏡をかけている。

先輩:学部三年生の文系学生。カジュアルジャケットを着こなし小奇麗な見た目をしている男。服の割には背が低い。髪もさっぱりとしており、好青年の感がある。社会人向けのカバンなどを持っているが、服装からして大学生であると分かる。

この劇は二人劇であり、二人はカフェのようなところで話している。二人以外の人物は語りのうちに登場するのみである。セットは最低限で十分だが、カフェの机は多量にある。先輩は自らの語をはて言ったか覚えていないかのように、後輩は自らのものでない語をあたかもその場にあったかのように語る。

 

後輩
「旅というのは元来のほぉほぉんとしたものではない。旅立つと言わば、かつてはむまのはなむけし、宿場の手前まで見送りの宴を開いたものである。それもこれも旅というのがまさに険なるを冒すこと、しかり冒険であったからに相違ない。泰西の語にヴォーグラガレーレというのがあるが、まさしくその通り、舟を漕ぐ手を決して休めてはならない。それがたとえ小旅行なるといえども、小旅行なりと油断してはならぬ。そはまさにオデュッセイアの旅路に等しきもの。小旅行を楽しむものは小旅行に楽しまれる。ゆめゆめ忘るること勿れよ。」

田代さんはこう言って演説をぶつと、むっつり黙ってじっと見つめてきた。山手線の緑の列車が止まると、それからふと立ち上がった田代さんはヴォーグ・ラ・ガヘーハとゆっくり唱えて、再び口を開いた。

「時間がないなど言うんじゃないよ。たしかに君は働き詰めだ。大学生なのに。しかしどうということはない。まだ3年目ではないか。まだやり直せる。わかるかね、美しく戯けた学生生活というのは今からでも始めることができる。よしんば君が働かなくては生きてゆかれぬ生物であるとしても、しかしそれは君が恋に恋して恋焦がれ、恋煩いに罹患して、胸の痛みに耐えかねて、麻酔代わりに使い続けているからだ。
ねえ、君にとって仕事は阿片だよ。
身も心も壊してしまう。ねえ、私たちは今旅をしつつある。そうだな、すこしこちらも悪かった。身も心も崩壊寸前の君を、微妙繊細なる調整の必要な旅に連れ出してしまった。これはひどく反省している。しかしいったん銭湯に入って君の人生を立て直そうではないか。風呂というのは滋養すこぶる強く、その効験すこぶるあらたかにして、これを祀るところの社すこぶる多く、浸かればたちどころに傷病ことごとく平癒すとの報告すこぶる多きものなのだよ。健康な人が入るとかえって疲労感を抱く。ほっこりというのはかつてその風呂に浸かってしまった健康なる人の疲労困憊の感を述べたものだった。ねえ、風呂にゆこう。酒を飲む前に風呂につかるというのはさらに有効だ。酒精の力もこれあらたかにして、いとも強し、そこで酒を飲んで風呂に入るとほっこりがすぎる。よって体を温め、血流をよくしてから少しく体を冷まして酒を飲むのだ。すると酒精は適切適当な速度で体を駆け巡りその効験を五臓六腑に染み渡らせる。ねえ、すぐ近くに知っている銭湯がある。ひとまず行こうじゃないか。君、旅の始まりだよ。」

先輩
「んな大げさな。」

後輩
とあなたが漏らすと田坂さんは大きく首を振って歩みを速めた。漏れた言葉はホームから改札階へ向かう階段を流れていってバラストの間にしみこんでいった。

先輩
「だいたいね、僕が働くのは気を紛らわすためではありませんよ。次なる人生のステージ、会社員人生のために、できる限り良い会社へ行こうとするためのステップなんだ。そのためにインターンを三つや四つやるのです。倒れて後に休むのみ。その気概がなくてはゆくべき会社に行くことはできないのです。まったく、あなたの世話焼きも困ったものだ。
それに恋に恋して、なんです、なんだかわからないけれど、恋に現を抜かす余裕がないのでもない。僕だって自分の好みに合うサイドテールの愛らしき方がどこかにいないか目を皿にして探している日だってありますよ。」

後輩
適切な反論をしたつもりだが、田代さんは笑ってまあまあとなぜだかなだめるだけだった。日暮里駅を北口改札で出るとしばらくして左に折れた。あの辺りはわずかに居酒屋もあるが、全く静かな住宅街で、銭湯など見る影もない。

先輩
「銭湯などどこにあるんです。」

後輩
と聞くけれど田代さんはやっぱりまあまあと笑ってなだめてくるだけで、街灯も減り夜の帳が下りてゆくのをすごすごと見過ごしながら歩くのだった。しばらく道を右に左に曲がっていると、あたりは寺があまりに多く墓ばかりが立ち並んでいる。墓場というのは明かりがあるものではないからずいぶん道も暗いものだ。田代さんはおそらく口を開いた。というのは前にいて姿が良く見えなかったからなのだけれど、しかし声がしているからには口も開いていたのだろうと類推した。

「ねえ、墓場というのは妙に穏やかのところだ。それでもってたいそう嫌なものだ。墓場というのは仏の、仏というのはここではつまりお陀仏した人の事を言うのだけれど、つまり仏の、もっと言えば焼いてあるから骸骨のアパルトマンというべきのところだ。生きているうちとて我々は狭いところに安住させられているというのに、それにもかかわらず死んでしまってからも狭いところに安住させられるというのかね。ねえ、嫌なものだよ。
墓場の静けさというのは真に新興住宅街の静けさだね。そこにあるのは死んだ生活というべきもの。イデオローグにいえば疎外された人間の生活だよ。しかしね、生きているうちはそれでもよいやもわからぬと思う事がある。やけに自由を声高に唱えて、自分の居場所という足かせを探し求めていることが、自分という何かよくわからない触ったら壊れてしまうシャボンのような宝物を探し求めていることが、真になすべきこととは存じない。そのようなことをするくらいなら、自分を決して安らかにしてくれはせぬところで生くるがましやもしれぬと思う日もある。まあ、私はどちらも選ばぬがね。
しかし、自分なんていうものは結局否定の道によってしかたどり着けないのかもしれない。君の生き方というのは忙しく生きることで自分というもののその柔らかな泥のようなものを固めて塑像にしようとしているのじゃああるまいや。しかしそんな塑像は手をつくそばから崩れ去ることだろうよ。ねえ。」とひどく酔っぱらったようなことを言うのだけれど田代さんはこれでも酒を飲んでいない。まだ一滴も飲んでいない真性素面のものなのだった。まともに返事をしなくても田代さんは何も言わないでいるのだったから、そのままそうやって真っ暗な寺町をすり抜けていくとようやく明かりと煙突が見えた。そこに来て初めて

先輩
「ああ、銭湯ですね。」

後輩
と声が漏れた。漏れた声はとろりとアスファルトに流れて、銭湯から滴る水滴に吸い取られてしまった。毎日湯は地元に住んでいる貧乏学生と翁たちの集まるところで、田代さんはここによく通っている人だから、あたりの翁に話しかけているのだけれど、全く面白いと思えるものではなかった。田代さんのいつもの口調はなくって学園祭と商店街振興組合を接続させてひと稼ぎしようと考えているあほ学生の様であったから、案外田代さんも凡俗だと思った。田代さんに浴槽の中でもう一度反論を試みた。

先輩
「田代さんね、僕の行動を自分づくりだの阿片だのというのは本当にやめていただきたいものです。決して困憊だってしていませんよ。それは断じて違うというべきです。僕は進むべきところの道がある。そこに向かっては一歩一歩と前進をしているのです。漸進的な前進を全身全霊で進めているのです。」

後輩
 「まあまあ、君はまだ若いのさ。しかしそれも一時の夢だ。少年老い易く学成り難しというが、君は学を修めるというのでもないだろう。学を修めずして、しかも阿呆の踊りに連なることもしない。しかもそうやってして手に入れるものは何かあるのかね。」

先輩
「だから素晴らしい社会人生活を手に入れるためにするのですよ。それに、あなただってまだ若いでしょう。」

後輩
「いや、君はまだ青い。対して私は枯れてしまったよ。」そういうと田代さんは「私は健康な人間だからこの辺りで風呂に別れを告げる。これ以上いるとほっこりしてしまう。君は疲れている。もう少し入っておきなさい。」といって銭湯を出ていった。はたしてのぼせかけて風呂を出ると、駅前の焼き鳥屋で田代さんは先に飲み始めていると連絡があったのを見つけた。駅の北口台地上には数軒だけ居酒屋が固まってあるところがあって、あたかも山上の仙窟の様であった。
そこでは昔なじみの本荘が田代さんに管を巻いていた。田代さんと本荘は同じ大学であり、別の学科だが知り合いであったらしい。本荘とは高校の部活動の知り合った後輩、田代さんとは大学のインカレサークルで知り合った先輩だからこの二人が知り合いというところに少しばかりの驚きを抱かずにはいられなかった。

「ねえ、先輩、私たちの感情は他の動物と異なるところはほとんどないのじゃああるまいかって最近思いいたることがあるんです。モモ塩ください。つまり、それは動物すべてが人のような複雑な思考を有するという意においてではなくて、人間の方がむしろその、単純であるという意においてなんですけどもね。つまり人間の感情がその単純でありなおかつそのことによって豊潤であるように、そこにいるすべてのものの感覚世界というのもその単純さによって豊潤であるのではないかって。砂肝ください。
この間言ったと思うんです、人間はみな一片のタブローに等しいって。それはまあ、鑑賞者としての私の感覚です。ええ、その事なんですけれどね、そのことをこう、考える私の頭に潜むその感性はいたって単純なものではないかと思う事があるんです。えっと、レバーの塩ってありますか、ない、ならタレでいいです。というのは、私が美しいと感じるというのは言葉として美しいと思うのではもちろんなくて、なんとなく有難かったり息をのんだりするような感覚をまとめてとりあえず美と呼ぶわけではないかと思うんですけれど、その言語化を拒みながら言語化を誘い続けるその何者かを私たちは感情と呼びました。ひなネギの塩一本ください。
カテゴライズすることによって我々の感覚を共有できるものにしてしまうためだということができるんじゃないかと思うんです。それも共有するということは全面的な賛同と共感ではありません。共有というのは差異を虚心坦懐に見つめることだと思うんです。似ているからこそ小さな違いに気が付くものだし、違いすぎるからこそ意外な共通点に気が付くものでしょう。ほらこの辺りの国は近くにあって大して変わらないからこそお互いに違うんだって言っていがみ合うわけでしょう。近くって似ているからこそ違いが大きく見えてくる。逆に遠くの国とこの国とを比べると案外近いところがあるなんて思うのはあまりに違うところが多すぎるからですよ。すみません、あの、うな肝ってありますか。タレでいいです。それと、砂肝ください。
話がずいぶんそれますけれどね、何が言いたいかというと、我々は言葉があるから豊潤な感情を持っていると認識するんです。ソシュール的なやつです。モモ塩ください。あと、ひなネギも。本来そこに言語化されていない何か漠然としてないまぜになった靄にかかったような感情や反応やそのすべてがあり、そしてないというべきでしょう。この根源的な何かに何かという名をつけるならば、それはすべての動物に、もしかしたらすべての生物にさえありうるのではないかと思う事がある、そういう話です。すみませんお冷いただけます。我と彼を隔てるものは言葉です。それは言葉の有無が隔てるという意においてではありません。その言葉の力によって分かたれるという意においてです。」田代さんを煙に巻いて管を巻いていると言っても本荘は酒を飲んでいるのではなかった。本荘は成人には未だ成らざるの年であり、酒をあえてして飲もうとは思わぬたちであったからだ。本荘は焼き鳥を好む。塩しか食べないが通ぶっているのではなく、単にたれが嫌いなのだと常に語っている。つまり通ぶっている。

先輩
「やあ、本荘君と会うのはずいぶん久しぶりかな。」

後輩
「おや、先輩久しぶりじゃないですか。ねえ、おそらく、この間の、みんなで旅行したのが最後じゃないかな。それ以来だ。たぶん、そう思いますがね。」
「おや、君たちも知り合いか。個人の生活世界というものは妙に狭いものだねえ。知り合いの知り合いが知り合いであるとは実に愉快だ。」田代さんはすでにずいぶん飲み進めていた。桧のカウンターは田代さんが大海に漕ぎ出だす船であった。田代さんが舟を漕いで大海に出ていこうとするのを本荘が必死にひっくり返してやろうとしているのだった。

先輩
「田代さんは飲みすぎです。それに本荘君、飲まされていないだろうね。」

後輩
「大丈夫ですよ。うちの大学は御宅とは違って阿保学生のノリが少ないのです。ゆえに私は成人になるまで飲むことはないのです。ほかの二人もまだ飲んでいないようですがね。しかし私はまあ、二十歳の誕生日に親と飲みでも致しましょう。それまではひとまず私は飲まぬことにしておるのです。お米少しいただけますか。」本荘は多量に頼んだ焼き鳥を食べ続けた。食べられるのか問うてみると、「コメとあうものです。私の腹はあなたがたと比べて無尽蔵なのですよ。」そう言ってしばらく沈思黙考して、うな肝を眺めていた。「そうだ、知り合いはほとんど山の下で飲んでいるのです。これからそっちへ行くつもりですがね、お二人も行きますかな。」
「私はもうしばらくこちらにいる。君は行くかね。」

先輩
「せっかくだから、行かせていただこうかな。田代さん、失礼いたしますね。」

後輩
「そうと決まれば大将、支払いはこの兄さんがしますから。それでは行きましょう。私の知り合いが集まって親睦を深めようと飲んで居るというのです。まあ、むろん甘々しい雰囲気で飲んで居る人はいないでしょうが。」そう言って本荘は肩をたたいて支払いを押し付けた。「よろしい、君ら二人の分は私が払っておこう。大将、ビールをもう一杯。」

先輩
「ありがとうございます。ごちそうさまです。失礼します。」

後輩
「うむ、また機会があれば。」田代さんはのんびりと飲み続けている。どこに金の当てがあるのだろうと少しいぶかしくもある。墓場を抜けて陸橋を下りると羽二重団子の店のところに出た。日暮里と鶯谷の間はどうにも真っ暗で、本当に居酒屋などあるのかと思義を重ねるけれど、駅のところまでそう遠くはないのだろうと思って納得もした。暗がりの中で本荘はご当地ガイドをしているのだけれど、真偽のほども定かではない話を語るからしまいには閉口せざるを得なかった。「そうだ、この辺りに私はよくいくのだけれど、あまり人の来ているというのではないでしょう。飲み屋もわずかにはあるのです。いいところがこの辺りにありましてね、どうです、あなた焼き鳥屋でほとんど飲んでいないでしょう。陰の者はどうにも酒の力を得ねば人と話すに至れませんでしょうから。どうです、駆け付け一杯飲んでいきなったら。それに私は味噌汁でも飲んで腹を整えてやらなくてはいけません。」そういって本荘は鶯谷あたりの小料理屋の前で足を止めた。仕舞屋のようにさえ見えうる寂れた二階家のガラスの引き戸を引いた。

 

f:id:K8huyGk29QAOYOv:20210718113310j:plain

 

【小説】巡礼の年(西文貴澄)

 

 巡礼の年を迎えた。16歳の時に『方法序説』を読んでから、18歳になったら旅に出ると心に決めていて、私はそれを巡礼の年と呼んでいた。
 巡礼と言っても、メッカに行くわけでも、お遍路さんに行くわけでもない。そういう、目的を持った崇高な旅ではなく、ただ、自分の思いを昇華させるための旅だった。その本のある一節を目にしてから、啓示のように、旅に出なければならないと悟った。自分よりも中性的な声が、頭の中でその一節を何度もなぞった。私は巡礼の旅に出るほかに、選択肢がなかった。
 私は放課後、図書館に籠って事細かに計画を立てはじめた。地理の棚にある本を隅から隅まで読んで、大陸に一本の道を描いた。親には「かわいい子には旅をさせよ(可愛くなくても)」と何度も言い聞かせた。計画を書き詰めたノートは3冊にまとまって、私はそのキャンパスノートを胸に、静かに18歳になるのを待った。毎晩、マッキーで表紙に書いた上・中・下の字を眺めてから、ベッドに入った。幾度もその日を想像して、その先に待っているものを思い描いた。
 3月の中旬、出立の日が来た。飛行機は大阪空港を出て青島に向かった。青島を経由して、私はウルムチへ向かう。荷物はリュクサックと中くらいのボストンバックにまとめて、全て機内に持ち込んだけれど、母がペットボトルに詰めてくれた念のこもった特製レモンジュースは、2口しか飲まないうちに、空港の検査で没収されてしまった。初めての飛行機で、アナウンスやシートベルトのサイン一つ一つにドキドキした。はじめての体が浮遊する感覚の中で、旅程を復習しようとリュックサックを開けると、そこにあるはずのものがないことに気が付いた。上・中・下のノートの「中」がなかった。
 私の巡礼の旅は、計画書を欠いたままはじまった。どこかの国の諺では「はじまりは半分である」と言うし、最初の一歩を踏み出した時点で半分は上手くいっている、そう考えて私はその先を楽観するように努めた。

 

 ウルムチで一泊してから、南彊鉄道に乗って西へ向かった。14時発、和田行。駅の検問を抜けて乗った車両は、一番安い切符を買った人の集まる硬臥車だった。
 寝台列車は3段ベッドで、最上段が一番安かった。一つの個室に6つのベッドがある。最上段のベッドに荷物を置いてから、私は通路から外を眺めた。曇ったガラスの向こうで、灰色の空と乾ききった大地の二色が、どこまでも変わらなかった。時々風力発電所が見えるだけで、砂漠には何もなく、ただ風がひどく強い。
 全く変わらない景色に見飽きて、ベッドでぼんやりと本を読んでいると、反対側で寝ていた男が声をかけてきた。中国語がわからず、ただ相手の黒ずんだ額を見つめていると、私の持っている本を指さした。後から考えてみると、それは中国語ではなかったかもしれないが、とにかく、その『方法序説』を指さして、男はしきりに本をくれるよう頼んでいるらしかった。男はカバンから缶を数本取り出して、差し出してきた。ザクロの絵がプリントされた大きな缶で、びっしりと並ぶ漢字はよくわからなかった。
 ボロボロになりつつある『方法序説』は、私にとってお守りのようなものだった。日本に帰ればいくらでも買えるけれど、私はおいそれと渡したくはない。しかし、男も折れず、終わりが見えなかったから、とうとうこちらが折れてその本を渡してしまった。
 本は男の手に渡った。日本語で書かれた本をどうやって読むのだろうと思ったら、男はそれをカバンにしまい、そのまま寝てしまった。私の手元には4本の缶がある。中身が気になったけれど、開けてまずかったら、食べきれる量ではない。しかし、缶は持ち運ぶには非常に重い。私は缶を布団の上に並べて、そのまま寝てしまった。
 起きると、外は真っ暗だった。デッキに出て、外を眺めようとしたが、何も見えず、車内と私の顔が映っていた。日本を出るときに伸ばしていた髪をバッサリと切ってしまってから、人格までもが変わってしまった気がする。なんだか自分探しの旅みたいで、こぱっずかしいと思っていたけれど、自分を見つける旅というよりは、自分を一から作る旅なのかもしれない。今他人の手に渡ってしまった本の、「世界という大きな書物」という言葉に引き付けられてから、私は予感していた。不定形の私が少しずつその形を見る日を予感していた。
 書物を通しての学問に懐疑的になったデカルトは、学校を卒業してから、「世界という大きな書物」の中でしか探求できないものを学ぼうと、世界に飛び出した。きっと、本より大事なものが、この先にある。このデカルトなんて偉人には及ばないけれど、この私の巡礼にも。

 

 南彊線は、カシュガルからは南下して、ホーテンへ向かってしまう。中国の国境を越えて西へ進むには、下車して車に乗らなければいけない。
 カシュガルには翌朝8時に着いた。そのまま休まずに乗り合いタクシーでイルケシタムに向かおうとすると、イルケシタムの国境は閉鎖されていた。バスターミナルで他の行き方を聞いた結果、カシュガルの旅行会社の車で、トルガルト峠から北に抜けることになった。
車は雪を薄くまとった岩山の中を半日走って、トルガルトに向かった。そこでキルギス側の旅行会社の車に乗り換える予定だったが、着いてみると、その車はまだ来ていなかった。旅行会社の人にいつ来るか聞いたが、知らないと言われた。そのまま、キルギスの車が来ないうちに、運転手はそのまま引き返してしまった。信じられなかった。それから30分経っても、それらしき車は来なかった。
 標高3000mの国境に取り残されてしまった。本当に車は来るのだろうか。電話は繋がらない。視界に収まらないほど広い山の間を、冷たい風が通り抜けて、もはや風以外の音が聞こえない。仕方がなく、関を超えてから、トラックやトレーラーを眺めていた。載せていってくれそうな人がいたら声をかけるつもりでいたが、昨日は一日中電車に乗り、今日は半日車に乗っていた。疲れ切って動けそうになかった。
 フェンスに寄りかかって目前に迫る裸の山を眺めていると、若い女性を連れた男の人が声をかけてきた。
 二人はニット帽をかぶっていた。何を言っているかわからないが、その言葉の中に、明らかに私の名前が入っていた。私が必死に頷くと、彼はまくし立てて様々なことを話していた。それを途中で遮って、横の女の子が拙い英語で、事の顛末を教えてくれた。旅行代理店が手違いで車を出せなくなった。代わりに私たちがあなたの迎えに来た。あなたのホテルの代わりに、私たちの「テント」に泊まってもらう。元の値段の半額を彼らに払う……。2人が私のお迎えだった。私はその人たちの車に乗って「テント」へ行くことになった。

 

 軽トラックには2つしか席がなく、女性が後ろの荷台に乗ると言った。
私はそちらで良いということをどうにか伝えたが、結局2人で荷台に乗ることになった。スケールのわからないほど大きな岩山の間を、車は下っていった。雪に薄く覆われて、どこまでも途切れない。時間が経つにつれて寒くなっていく。リュックを抱えて足をギュッと抱えていると、女性がマフラーを貸してくれた。何と言っていいかわからず、私は頭を下げただけだった。リュックに目を落とすと、どこかに落としたのか、リュックに結んでいたお守りがなくなっていた。
 しばらくして山を抜けると、小さな草原が現れた。空の青と大地の緑、それを切り裂くアスファルトの色が眩しい。遠くに雪山が連なっている。しばらくしてモネの積み藁のような形が見えてきた。それは白いテントだった。より正確にはユルタの集落の住居だった。
 促されるままにテントの一つに入った。そこはゲスト用に整えられたテントらしく、誰もいなかった。食事になったら呼ぶ、どこかに行くときは声をかけて……。女性がそう言って出ていく前に、リュックに入っていた謎の缶を渡した。何もかもお世話になって、少し情けなかった。彼女はありがとうと言ったらしかったが、中国語でも英語でもなかった。

 

 テントで一人になった後、疲れ切っていた私はいつの間にか寝てしまった。起きると、誰かがかけてくれたらしい毛布に包まっていた。テントの中が仄明るい。足元を見ると、先ほどの女性が座っていた。食事、と一言言われて、既に夜であることに気がついた。慌てて毛布を畳み、外に出ると、真っ黒な視界の中に、淡く空が浮かび上がっていた。星だった。真っ黒な大地と山の上で、空が僅かに明るい。
集落の人たちと一緒に食事をした。彼女とその家族の名前も教えてもらった。どれも本当においしかったけれど、白くて酸っぱい飲み物だけは、飲みきれず、隣の子に分けてしまった。楽しくて仕方がない、その裏で、私の無力と無知と愚かさが、胃からせり上がってくるような気がした。食べ終わってから、私は何度も頭を下げて、テントを後にした。  

 

  戻る途中、星が美しい、今までにこういうものを見たことがない、と私は彼女に言った。ここに来る人は皆そう言うと彼女は言った。テントに戻ってからしばらくして、彼女が私を呼びに来た。ついていくと、地面で火がパチパチと火が燃えていた。2人で火のそばに座って、ずっと火を眺めて、時々空を見上げた。もしかして、私が外で空を見られるようにしているのだろうか、だとしたら、貴重な燃料を使ってしまっているのではないか、と不安になった。 
 燃えるもの、と彼女は言った。
 私は何かしてもらうばかりで、私からは何もしていない。咄嗟に、リュックの中にあるノートを一冊渡してしまった。暗くて表紙が見えない。差し出してから、手が震えた。彼女はそれには気付かずに、そのノートを火にくべた。
 ノートが火に飲み込まれた。挟まっていたプリントが一瞬で灰になる。「上」のノートだったらしい。火の暖かさが目に沁みる
 そういえば、昔、宿題を燃やして暖を取りたいと思ったことがあった。遭難した子供が宿題を燃やして寒さを凌いだというニュースを聞いて、ひどく惹きつけられた覚えがあった。私は持っていた手帳もついでにくべてしまった。

「寒い」、と彼女が言った。エルの音がインド英語のアールのようだった。
「ええ」と私は答えた。
「私たちしかいない」
「ええ」
 鳥肌の立つような冷たさと、苦くて酸っぱいどんよりしたものが心の内を満たした。これは何だろう、私は問いたい。でも、言葉にならず、語彙が出てこない。空を切って、広大な大地の礫が、出かかった何かを吸い取ってしまう。
 私は口を閉じて空を見上げた。煙が立ち昇って闇に吸い込まれていく。空は雲一つなく、星だけが私たちを祝福していた。

 

 

【小説】蟻とバス(南後りむ)

 

 午後四時を過ぎたころ、駅前のバス停には十名ほどの列ができていた。その最後尾に、学校帰りの男子高校生がスマホを片手に立っていた。その視線は当然ながらスマホの画面――会員制交流サイトとやらが表示されていた――にやられていた。その目は特に熱心になにかを見るというでもなく、気だるげだった。息をするように他人の投稿を眺め、特に何か思うということもなく、また息をするように――或いは食い物を咀嚼して、嚥下して、消化するように、画面をスクロールしてまた次の投稿を眺めていた。いや、彼にとってはまさしく消化と同じで、気にも留めない生理活動の一環として行われているようであった。
 そういう事で、投稿の内容に意識を向けているのかも怪しいものだったが、しかし彼の視線はしっかりと画面を見ていたらしい。というのも、彼は不意に目に飛び込んできたある投稿を見て、気だるそうな目を鋭くさせた。少しばかり、不機嫌そうな目つきだった。
『模試の結果返ってきたけどE判ばっかでやばかった~~!今年受験なのにやばいかも(笑)』
 彼は舌打ちをすると、スマホをズボンのポケットにしまった。ちょうどそれと同時に、バスがその接近を知らせるチャイムを鳴らしながら、バス停に滑り込んできた。
 列は順々にバスの中へなだれ込んでいき、彼もその一番後ろについていった。並んでいた人が多かったので座れないかもしれないと彼は思ったが、目の前に並んでいた利用客たちはみな奥の席についたらしく、入ってすぐのところにある一人掛けの椅子があいていた。彼はその席に腰掛けた。
 まもなくバスは出発した。家まではここから停留所が五つ、時間にして十分程度である。彼はズボンのポケットに手をかけて、それからはっと手を離した。先ほどの彼を不快にした投稿が思い出されたのだった。すこぶる機嫌の悪くなった彼は、カバンをあけて、中から英単語帳を取り出そうとした。カバンの中はなかなか汚かった。所々折れ曲がった授業のプリントで埋め尽くされていた。そのプリントをかき分けながら目当ての単語帳を探すうち、彼の目にクシャクシャになった薄い冊子が飛び込んできた。瞬間、彼はそれを片手で握りつぶした。それは、『高三全国統一模試』の成績表であった。
 汚いプリントの屑の中からようやく単語帳を釣り上げた彼は、カバンを閉じて足元に追いやった。カバンへの扱いは、少しぞんざいなものだった。
 彼は単語帳を開いた。分厚い単語帳は、カバンの中のプリント類と比べて幾分か小綺麗だった。外見は少し汚れていたけれども、中はまったく新品のようであった。彼は最初の単語から順繰りに目で追っていった。スマホを眺めるときと同じように、特に熱心な様子はなかった。
 最初のバス停についた。人が何人か乗ってきたが、彼は気にせず読み進めた。二番目のバス停を、バスは通過していった。そうして三番目のバス停に差し掛かるかどうかというところで、彼は急に単語帳を閉じてしまった。五ページも進んでいなかった。彼はすこぶる不機嫌そうであった。その目には、焦燥の色が微かに浮かんでいた。
彼の頭に、不意に先ほどの投稿の一節が浮かんできた。
『受験なのにやばいかも(笑)』
 笑い事じゃない、と彼は内心憤りを感じていた。それは他ならぬ、彼自身へ向けられたものであった。
 今までに何度危機感を覚えてきたことか。模試の結果が返ってくるたび、定期考査が行われるたび、或いは担任の教師と個人面談を行った時など、毎度のように「いまのままではいけない」と思ってきた。そして、自らを奮い立たせて机に向かおうとした。しかし、悉く挫折した。なにしろ単語の勉強ですら五分と続かないのだ。いわんや真面目に勉強などできるはずがない。
 彼はそれが自分の飽き性によるものだと知っていたし、近頃は半ば諦めのようなものを抱いていた。友人や先輩、それから教師に助言を仰いだりもしたが、まったくの無駄だった。彼らの言う通りやろうとしても、結局うまくいかない。うまくやっている人のやり方ならば自分を変えられるだろうと期待した分、結局効果のなかったことに対して余計にいら立ち、また絶望もした。そうして、彼は余計に諦念を抱いていった。
 しかし、諦めたところで大学受験はやってくる。既に十月の半ば、本番まで三か月ほどしかない。受験をしない、という選択肢もあったのだが、彼のどうしようもない虚栄心がそれを拒んだ。何もできないくせにプライドばかり高い、どうしようもない人間だということは、彼が一番よく分かっていた。だからこそ、彼は余計に自分が嫌になっていた。
 バスは三つ目の停留所を過ぎた。彼はため息を吐いて、単語帳をカバンにしまおうと屈みこんだ。その時、彼の目の前の壁を、黒い塊がもぞもぞとしているのが目に入った。よくよく見てみると、それは一匹の蟻だった。
 反射的にカバンから不要な紙を取り出した。それで蟻を潰そうという算段だった。特に理由はなかったが、普段家に入ってきた蟻を逐一駆除しているからかもしれない。
 とにかく、彼はなんとも思わずその蟻を潰そうとした。しかし、潰そうとしたその時、不意に彼は自分の手を止めた。罪悪感が芽生えたわけではなかった。彼が反射的につかんだ紙が、例の『全統模試』の成績表だったのだ。その紙が目に入って、一瞬彼は動揺した。
 その間に、蟻は壁伝いにバスの窓まで歩いていた。その様は、少し右往左往しているように見えた。その姿を見ているうち、彼ははたと自分のしていたことがまったくの不必要なものだと思い至った。この蟻は、自分が手を下すこともなく、じきに死ぬはずだからだ。
 本来蟻というものは土の中に巣を作る生き物だ。バスの中には作らない。つまり、この蟻はどういうわけか、可哀そうにバスの中に迷い込んできたのである。そして、二度とバスを降りることは叶わないだろう。バスは蟻にとって、大きすぎる牢獄のようなものだ。永遠に抜け出せない、牢獄。
 そう考えると、なんだか蟻が可哀そうになってきた。バスは四つ目のバス停を過ぎた。彼は、目の前の柱についている降車ボタンを押す。「次、とまります」というアナウンスが車内に響いた。「停留所にとまってから、席をお立ちください」
 彼は手に持った成績表を見た。これで潰そうと思ったが、軽く包んでバスから降ろしてやるのもいいかもしれない。そうしてバス停の前で放ってやれば、蟻は見事バスから脱獄し、幸せに過ごせるに違いない。そう思って蟻の方を見たら、窓枠をつたって後ろの席の方へと歩いているところだった。少し考えている間に、だいぶ進んだらしい。彼の目には、蟻が健気にも自分自身の力で出口を目指しているように映った。
ああ、可哀そうに。彼は蟻の救世主になった気分で、クシャクシャになった模試の成績表を広げた。そうして、蟻を捕まえようとした。だが、蟻は意外にも素早くかわした。なんだ、助けてやろうとしているのに。彼は少しつまらなくなった。もう一度捕まえにかかった。今度は、うまくいった。蟻が逃げ出さぬよう、彼は成績表を軽く丸めた。
 バスの前方を見ると、まもなく見慣れた停留所が近づいてきた。さて、降りるか。彼は立ち上がろうとしたが、走行中の移動は危ないとさんざんアナウンスで注意がなされていたのを思い出して、律儀にバスがとまるのを待つことにした。暇なので蟻の入った包み紙――模試の成績表に目をやった。見るのも嫌な紙だった。家に帰ったら捨てようと思った。
 その時、彼の頭に突拍子もなくある考えが浮かんできた。いま捕まえた蟻は、はたして無事に家まで帰ることができるのだろうか。否、無理だ。彼はすぐに頭の中で否定した。この蟻は、一体全体どこで乗車したのだろうか。仮に次のバス停で自分と一緒に降りたとして、その近くに巣があるとも限らない。むしろ、ない可能性の方が高い。そうすると、結局この蟻は自分の家に帰ることができずに、孤独に街を彷徨うことになるのではないか。
 どうする? 彼は自分に問いかける。バスがとまって、ドアが開いた。彼は咄嗟にクシャクシャの紙を広げると、中をうろうろしていた蟻を手で軽くつかみ、それからバスの窓枠におろしてやった。蟻は何事もなかったかのように、また歩き始めた。
 ドアが閉まる前に、荷物を抱えて急いでバスを降りる。結局、赤の他人である自分が、蟻に手を差し伸べることはできないのだ。よかれと思って差し出した手は、結局、「自分がいいと思う」手なのであって、それが他人にとってもそうであるとは限らないし、もしかしたらそうでないことの方が多いかもしれない。
 結局、あの蟻がどうなるのか、またどうしたかったかなど、彼には皆目見当もつかない。蟻を乗せたバスがノロノロと走り去ってゆくのを、彼はしわの寄った成績表を握りしめながら、ずっと眺めていた。

【小説】言い訳(唐桶つばめ)

 

 ため息をついてスマホの画面を閉じる。提出予定日を超過しているにもかかわらず一切の連絡もよこさないとは、どうやら完全に無視を決め込む算段のようだ。

 ラインで何度連絡を取ろうとしても既読無視を繰り返し、電話にも一切応じるつもりはないらしい。こちらは予定に合わせて動きたいというのに、と本当に嫌気がさす。

 どんな物事でも足を引っ張る人がいたら全て台無しになってしまうものだ。そして、その「足を引っ張る人」として真っ先に名前を挙げるとしたら彼だろうと前々から思っていたが、見事に的中したみたいだ。どうせ当たるなら競馬とか宝くじの方がよかったのだが。 

 幸いにしてこの世界では、ここと彼の住まいとの距離は数百メートルほど。問題なく一日で往復できる距離だ。ならば催促しに行った方がいいか、と重い腰を起こして向かうこと数分、汚いアパートの呼び鈴に指を伸ばして、ようやくお目当ての人物と対面することができたのである。

「おう、丁度良かった」

「なにが丁度良いだ。こちらは無駄な体力を使う羽目になって最悪だよ」

「まあいいじゃないか。なにせ小説という体裁を取る関係上、登場人物が一人だというのはあまりにも寂しすぎる。まあどうせ今のところ君はここから先本筋には関わらない予定だから、君の苦労はここまでさ」

 調子よさげにぺらぺらとしゃべる彼のことは無視して勝手に部屋の中へと上がらせてもらう。相変わらず荷物の入った段ボールは放置されていて、ぐしゃぐしゃに丸まったままの布団は彼のずぼらな性格を想起させた。

「で、今回の担当分は終わったのか? 当然、期限は十分にとったんだし、さぞかし立派な作品が完成している頃合いだと思うんだが」

「はぁ? こんなテーマ難しすぎて俺にはきついって。そもそも、悩み事なんて春(エ)楡(ルム)の木々を見ていたらすっ飛んで行ってしまうんだもの」

 どうしてここまで人を待たせておいてそんな悠長な態度がとれるのかと思わず嘆息してしまう。まあ、こいつはよく人が来るくせに客人に出す用の座布団一枚すら買おうとしないやつだ。並の精神の人間には理解なんてできっこないだろう。どうしてこんなやつをこの企画に誘ったのかと過去の自分を叱り飛ばしたくなるが、今更悔やんだ所で仕方がない。兎にも角にも今回はこいつの分も含めて回す予定なのだから、原稿は書いてもらわないと。

「はぁ……。まあこうやって字数を稼いでくれたことは感謝するぜ親友。そろそろ本題に触れないと、わざわざこいつに目を通してくれた人も企画の発起人も困惑するだけだからな。そうだなぁ、じゃあ“自分が落単しないかが怖い”ってことにしておくか」

「張り倒すぞお前」

「だってさぁ、大学生が一番怖がることって単位落として留年するかってところじゃね。俺なんてこの前提出期限の11秒前に出したんだぞ。それ以外にも出してない課題とかそろそろ指の数に収まりきらなくなりそうだし。落単しないギリギリのライン教えてくれたらこんな心配しなくて済むんじゃねぇかなぁ」

「それは大学生の心構えとして最悪なんじゃないか? こうして人生最後の自由な期間をもらっておいてそう浪費するというのはもったいない気がするが」

「よくもまぁ“自分”にむかってそう優等生な注意の仕方ができるな兄弟。まあ確かにそうは思うんだがな、うーん、そうだなぁ。心配って言ったら、やっぱり、こう……腐ったまま大人を迎えちゃうんじゃないかってことになるのかね。……まあでもこの企画で俺の話をするのは筋違いな気がするからこれくらいにしとくか」

「まあ確かにそんなもんテーマ作品です! だなんて提出されたら卒倒しそうだわ」

「よし、じゃあ俺がこれから小説を書く上で心配というかなんというかなことについてでも書くか。うん、まあ俺が小説を書いていく中で懸念しているのは『登場人物を演じきれるか』っていうところだ」

「というと?」

 彼は大きく息を吐くと、水垢のついたコップに水道水をくんで、唇をつけた。

「実をいうとな、俺は設定のあるキャラクターを小説で書くことが苦手だ。今現在だってこうやってロクに設定も口調もない男二人を動かして文章を進めているわけだし」

「はぁ? それってそんなに気にすることか?」

「あたぼーよ。設定とか口調とかがあると書いている文章でいちいち『この口調でキャラクターをちゃんと再現できてるんかな』とか『こいつってそもそもこんな行動取るかなぁ』とか考えなきゃいけなくなって大変じゃん。特に二次創作を書くのが難しくてなぁ。いちいち『こいつは口調をお嬢様らしく』とか『こいつは発言内容を基本的に弱気そうな感じにして』とか考えてると疲れちゃってさ。さらに、書ける内容っていうのは作者の頭の中以上は広がりようがない。だから俺が書く小説の女性は女性らしく化粧とか香水とか使うことができないし、どうしても“男性らしさ”のある人物に仕上がってしまう。つまり俺がいまワードで出力しているキャラクターは果たして『そのキャラクターそのもの』なのかそれとも『そいつのガワを借りて喋ってるだけの俺』なのかが気になっちゃって」

「はぁ」

「長すぎる独白を切るナイスな相槌に感謝するぜ。まあ俺個人としてはできる限り生き生きとしたありのままのキャラクターを描きたいから頑張りたいんだけど。やっぱそれにも限界があるし。そもそも細かい内面描写とか苦手だぜ俺。腕のある作家を見分けるうえでそこは重要だよな。やっぱり凄い人は一瞬を切り取って瞳の揺れだとか肌の輝きだとかの描写を全くの違和感なく入れ込むんだぜ、素直にすごいよな」

「……なんかテーマとずれてる気がするんだが気のせいか?」

「しゃーないだろ。元々はある友人を題材に書くつもりだっただがそれはやっぱまずいとこもあるし、そもそも“俺が書く”以上そいつの内面は俺の想像でしか書けないからな。やっぱりずれが生まれちゃうわけで。まぁ、そろそろキリもいいしここで終わりにするか」

「なぁ、最後に一ついいか? “お前”って普段“俺”なんて一人称使うっけ」

「……使わないな。だって“俺”って結構勢いがあって語感がよくなるじゃん。口に出したときにすっきりと朗読できるかを結構重視する俺にとっては一番重要なんだよ」

「はぁ……、随分と不思議なこだわりだな」

 先ほどまでリズムよくキーボードを叩いていた指が止まり、一仕事を終えたサラリーマンの様に彼は肩をほぐしている。

「ほらよ」

 乱暴に投げつけられたものを受け取ると、それは中学の頃に学校から配布されたUSBだった。長年使われ続けたことで模様の消えかけているそれを握りなおした後、無造作にポケットに入れた。

「じゃ、今度はやりやすいテーマにしてくれ」

「お前さんには遠慮ってものがないのか。まったく」

「俺がそういう人間だったら今頃優等生で通ってるわ」

 ほらほら帰った帰った、と言わんばかりに右手をひらひらと振る彼を睨みつつ、服装を整えながら玄関へと向かう。

「なぁ」

「ん」

「また来てくれよな」

 そう言ってにニカっと笑みを浮かべる彼に思わずため息を吐いてしまうが、ヤツは一切悪びれる様子はない。まあ昔からこんなヤツだというのは自分でも知っているが。

「そういえば」

 帰ろうとドアに手をかけたところで、ヤツは思い出したように声をあげた。

「どこかの作者さんも、当日に友人からのLINEを受け取ってはじめて投稿期限を思い出したらしいぜ」

「あほだな」

 どこか遠くにいるそいつの取り立て役の苦労に同情して、思わず両手を合わせて嘆息した。

 

【小説】庭たずみ(広瀬喜六)

 

 記号の与えられない感情をしまっておくには人間はちっぽけだよ。なんてきざなことを言った彼はどこへ行ったか知れない。彼は、ちょうど彼自身が思っていたよりもずっとちっぽけな人間だったのかもしれない。
 田坂さんは、記号の役割は個別的な差異に気が付くようにする事なんじゃないかな、といって画廊を出ていった。それはちょうど5分前の事で、あなたはそれから彼を見ていない。田坂さんとは銀座でよく出会った。もちろん金などないものだからもっぱらきらめく街のショーウィンドウを眺めながら松竹の演劇の図書館に通っていただけだったのだけれど、田坂さんのほうはというとそれなりに稼ぎのある人だったから昔風の日本画が好きで画廊を回っていたのだった。ずいぶん年上だから田坂さんは会うと必ず有楽町の駅前の交通会館の地下でラーメンを食べさせてくれる。ラーメンを食べながら田坂さんは笑って、いや、まあ私もそうお金持ちというのではないからね、とだけ言うのだった。田坂さんはあまりおしゃべりな人でもないからそれくらいで話が終わってしまう。

 今日はちょうど知り合いが貸画廊で個展を開くというからその手伝いに来ている。彼は人のいいやつだから手伝う気にもなったが、ずいぶん退屈な絵が並んでいるだけだ。彼は大学で知り合ったもので、日本画の専攻だった。絵を描くことだけが好きな奴で技術は極めて高度なんだけれど、どうにも退屈に思われた。なにかが組み合わさっていないと思われてしまったからかもしれない。

 どうにも退屈だから田坂さんが回ってきたときにはすこしほっとしたようにも思われた。ほっというのは不思議なもので安心感というのより息が漏れ出していくというような印象がある。漏れ出した息は画廊の床を伝って階段の方に流れていった。田坂さんは絵を一回り見ると彼に何か話していた。何話してらしたんですと聞くと、いや、ちょっとね、と言うだけで、別段気になってもいなかったから、そのまま別の話をつづけた。

 その前に別の知り合いの展示を手伝ったときも田坂さんがきていた。その時田坂さんはその子を含めて新橋の居酒屋でおごってくれたのだったと思う。それはヤマヤで買った下から3番目に高いワインのアルコールが良くなかったものだから\、田坂さんが悪酔いしていたためだろう。その時田坂さんは何を見ていたのだろう。田坂さんが何をしていたか、知り合いと話しているばかりだったからあまり覚えていない。居酒屋を出るとすぐに田坂さんとははぐれてしまって、次に会ったときにはずいぶん恐縮してしまった。なんとなく謝ってしまったが、すぐに特に謝る理由もないかと思い直した。田坂さんにあの後も飲んでいらしたんですかと聞いてみると、いや、別にと言葉を漏らした。漏れ出た言葉が蒸発して淀んだ雲になったものだから、少し冷ややかな風を感じた。冷ややかな風が吹き抜けると五月の憂鬱な空気が少し流されて行って、誰か別の人のところに行ったように思われた。

 こんどは田坂さんに、いつも駅の前で別れますけど、どこ行きなるんですか、何線の駅でも駅ちょっと前で別れますよね、なんて軽口をたたいてみたが、田坂さんは年を数えなおすようにゆっくりと、深く吐息を漏らした。漏れでた息はやはり床を流れて階段の方へ向かっていった。田坂さんはそれから、「あなたの感覚と私の感覚は、例えばこの彼の絵を見ても異なるはずだね。しかしともに美しいとか美しくないとか、美であったり美的概念であったりを振り回して話をするわけです。すると、記号の役割は個別的な差異に気が付くようにする事なんじゃないかな。」とだけ言って画廊を出ていった。田坂さんはワインを飲む前に帰ってしまった。

 例の彼を最後に見たのもこんな日だったかもしれないとふと思い出す。田坂さんももう会わないのかもしれない。しかし、例の彼を最後に見たのではないし、だれだったか忘れたが最後に見たというのはあなたの見たよりそれなりに後の事だったから別段どうという関係もない。個人の感興と彼の失踪には相関関係すらも存しない。こんなことで物語は始まらないのだ。
 銀座の街に下りていくと、そこは流れ出した人々の吐息でうっすらと水を張っているようだった。日本画の彼が今日は月がきれいな夜だねといったけれど、あなたはそうは思わない。銀座の町は上の照明と下を流れる吐息の照り返しとで全く明るくって、うっすら雲のかかった空は白く光ってさえいるようだ。ぼんやりと白く出ている月は半月と下弦のあいだくらいで、しかしそのちょうどあいだの様子から二日ほどずれている。

 階段から吐息の方へ足を踏み出せないでいると、日本画の彼がまだ空けていないワインがあるからとあなたを画廊に誘いなおす。あなたは断って一歩を吐息に踏み出した。人々の吐息は案外暖かくて、湯気が止んだくらいのコーヒーの口当たりに似ているのだろうとあなたは思う。あなたが人々の吐息をかき分けながら歩いていると、遠くに田坂さんが見えた。あなたも裸足で歩いてみなさいと声をかけられている様な気がして、あなたは靴を脱いでみる。暖かいのですね、とあなたが声を漏らすと、流れ出た声が吐息に混ざり合って、彼のもとに届いたらしく、ゆっくりと、そして深くうなずいているようだった。

 そのままあなたは有楽町へと向かう。田坂さんは谷の隙間に消えていく。あなたは明日も田坂さんと会うのだろう。信号の押しボタン箱は鳴いている。

 

庭たずみ挿画

【小説】アドベントカレンダー(西文貴澄)

 

 

 昔、イーサーさんがアドベントカレンダーを買ってきてくれた。
 クリスマスツリーの形をした箱がカレンダーになっていて、日付のところを押してくりぬくと中から小さなチョコが出てくる。暖かいところに置かれていたのか、出てきたチョコはどれも表面が白っぽくなっていた。
 イーサーさんは2つ買って、僕と毎日1つずつ食べるつもりでいたが、イーサーさんが帰った後、僕は1日でチョコを全部食べてしまった。イーサーさんは「なんてことするんだ」と言って怒ってしまった。
 けれど、後々考えたらきっとその方がよかった。毎日1個しかチョコは食べられない。食べた後で、次のチョコに手を伸ばすのを我慢して、また明日と自分に言い聞かせないといけない。そうやって1か月食べ続けて、クリスマスの日に最後のチョコを食べる。最後の1つを食べた後で、全部の日付がくり抜かれた空の箱が残る。匂いを嗅いだり振ったりするけれど、当然箱は空で、飾るにも不格好で、どうしようもないのでごみ箱に捨てる。30日が経っても何にもない。何を待望して一日一日を数えていたのか自問をする。カウントダウンがゼロになっても、何も生まれず、何も消えていかない。全部の窓が開いて、すっからかんになって、自分のところには何も来なかったなぁって言って次の日から普通に過ごす。ひどく不憫だ。
 だったら、最初から全部食べてしまって、おいしかったねって何ともないことのように言って、二度と振り返らない昨日のことにしてしまいたい。

 

                  ※※※

 

 朝起きると体が重かった。机の上のコップに口をつけると、口の端からお茶が零れ落ちた。寝不足のせいだと考えてシャワーを浴びたが、体は軽くならなかった。熱を測ると37・6度だった。
「やってしまった」と思った。この時期に休むことだけはしたくなかった。しかし、熱がある以上は学校へ行けない。
 腸を断つ気持ちで高校に休みの連絡を入れた。知らない先生が電話に出た。僕は「あ、おはようございます」と切り出した。
「3年2組の××××と申します。今日熱があって、学校に行けそうにないので。担任に伝えていただけますでしょうか」
「はい、わかりました。3年2組の××さんですね」
「はい」
「担任は内田先生ですね。はーい、了解です。伝えておきます」
 先生は最後に「お大事に」と言って通話を切った。スマホのホーム画面には「入試まであと105日!」と、カレンダーの通知が出ていた。
 朝食は食べられなかった。ヨーグルトを大匙1杯食べただけでお腹がいっぱいの気分だった。仕方なく、僕はずっと布団に籠っていた。
 本当は無理をしてでも学校に行きたかった。世界史は1コマ休むだけで置いていかれる。それでも、無理をして長引かせるわけにはいかなかった。体調を整えることに集中して、明日には復帰しなければならない。
 僕はスマホも見ずに布団の中でじっとしていた。熱を出した時、安静にしていても、何か作業をはじめるとすぐに体調が悪化するのはどうしてだろう。そのせいで、眠くもないのにただ布団に籠っていなければいけない。
 布団から顔を出して、薄暗い部屋の天井を眺めた。朝の外光が淡い青色をしている。いつもは誰もいない部屋に今日は横たわっている。ごみ収集車の音がする。燃えるゴミを出すのを忘れていた。今から走っても間に合わない。僕は静かに走り去っていく音を聞いた。


 安静にしていたのに、熱は上がっていた。熱を出さなければ出来たことを考えるだけで吐き気がした。
 昼過ぎにクラスメイトに連絡した。「熱出ちゃって」「だから今日いなかったのねー」「何か連絡事項とかあった?」「世界史で新しいプリント配られたよ」「もしよかったら帰りに届けてくれない、できたらでいいよ」「ごめん今日塾だから届けられない」「そっか、ならいいや」「ごめんね、お大事に~」、最後に金髪の女の子が目をギュッとして「お大事に!」と言っているスタンプが送られてきた。僕は緑色の髪の女の子が「ありがとう!」と親指を立てているスタンプを送った。10分後に見たときには既読はついていなかった。
 今頃は学校にいるはずだった。陽の当たる隅っこの席で授業を受けて、帰ってきたら英文標準問題精講を10問済ませて、ヴェルサイユ体制の予習を終わらせていた。手帳の上ではそのように予定されていた。それが出来ない。このままいけば今日1日は何もできない。起こってしまったことは仕方がない。だからずるずると引きずらずに明日からのことを考えればいいのだけれど、そう上手く理性的に感情は動いてくれない。
 このまま眠ってしまって、気づいたら次の日になっていればいい。だが意識を消したくても、消すことはできない。そのうちに自分の惨めな姿が一つ一つ思い出されてきて、寝転がっていることすら辛くなる。空気は冷たいのに体は熱い。湿った布団が鬱陶しい。時計を見ると、さっき時間を確認してから10分しか経っていなかった。
 ふぅと深く息を吐いた。上手く呼吸ができなかった。耳鳴りがする、天井が遠い。部屋を見上げていることが不思議だった。時間はない。僕は早く健常にならなければいけない。身体は怠いのに、目は嫌なほど冴えていた。 

 

                  ※※※

 

 この時期になるとクラスに来ない人が一定数いる。実態はわからないけれど、どうやら学校に来ずに家と塾で勉強しているらしい。そういう人は出席日数のために時々学校にやってきて、気まずいような素振りもなくケロッとしている。ある人は「単位落とせ」と陰で言い、ある人は何にも言わず、ある人は気に留めない。
 来ない人は往々にして成績が悪い。学校での無駄な時間を削っている分、勉強時間は増えているはずなのに、テストの点数は冴えない。学校では、来ない人=成績が悪い人という通念が出来上がっていた。彼らは、合理的な生活というものを追求して、全てを受験勉強に注いでいるにも関わらず、実績を伴わない、そういう可哀そうな人という意識が、学校では共有されていた。しかし、実のところ、その来ない人の中には、成績の良い人が1人か2人いた。その2人のいない教室で、先生は学校に来ている人は偉いと言う。その1人2人より君たちは偉いと言う。その言葉の受け取り手は、2人よりも成績が悪かった。成績の悪い人は、学校に来る奴は偉いという言説を支柱にして、自分の実力に目を瞑って、自身の足元の土を固める。先生を含め誰も彼もが成績という物差しで「高校生」とか「受験生」いう生き物を創り上げているというのに、そこでだけは成績を無視する。5段階ないし10段階の成績と、通知表に並ぶ順位を捏ねて自らを創っているというのに。過程においてかけた時間と努力は問われないはずなのに。
 この、意味の分からない世界が、僕の背中に支柱として埋め込まれていた。僕の背中を貫いて、首と頭を支えている。この背骨が缶詰の魚の背骨のようにボロボロと崩れてしまった時、何が残るのか、僕は知らない。
 今頃僕は、学校を「ずる休み」している奴だと思われているかもしれない。神に誓って言うが、僕は何もしていない。本当に、何もしていない。教室にぽっかり空いた席が頭に浮かんだ。教室は、窓が開いていて、秋の涼しい風が通り抜けている。冷房がついている。カーテンが音を立てて波打っている。笑い声が上がる。その中に空席がある。余った席か。学校をさぼっている人間の席か。それとも僕か。ふと、『ハイファに戻って』の一節が思い出された。「私はこのハイファを知っている。しかしこの町は私を知らないというのだ」。学校は僕を知らない。

※※※

 寝込んでから2日が経った。一時的に熱が37度を下回っても、しばらくしてまた熱が上がった。僕が寝ている間に学校で15コマの授業があった。他の人はそれを受けた。僕は受けなかった。3日間、僕は寝ていた。その間、他の人は赤本が4年分解けた。単語帳が半周できた。僕は何もしなかった。
 手帳に書かれた予定は、言うまでもなく完全に狂っていた。次の日から1週間で後れの分を挽回する予定を、3日間連続で書き込んでいた。手帳の表は3回更新され、書き込んで塗りつぶしてぐちゃぐちゃになって、何が書いてあるのかわからなかった。
 ふと、僕はこの状態を望んでいたのではないかと疑った。不可知な無意識の世界は僕の体の免疫を弱めてウィルスの増殖を許している。僕の知らない深層心理が、訳はわからないけれど、望んでいる。それが合理的なのか、非合理的なのかはわからない。合理というものに基づくことが正しいのか正しくないのか。正しいという尺度は無意識に存在するのか。何もわからないけれど。
 体に力が入らかなった。壁にしがみついて立ち上がった。台所に行った。すでに夕方だった。外で時々人の通り過ぎる音がする。
 コンロに昨日作ったうどんがあった。昨日どうにか作れたけれど、食べる頃には寝る時間だった。汁の表面で肉の脂が固まっていた。食欲がないにも関わらず、消費期限が切れそうだからと入れた牛肉だった。脂を掬ってキッチンに捨ててからごみ箱に捨てればよかったと後悔した。野菜の欠片と脂が排水溝で一緒になっているのを見て嫌になる。また掬ってゴミ箱に捨てようとすると、オタマに油がくっついて離れない。しばらく振り続けて諦めた。火をつけると油が溶けて元の鍋に戻っていく。数分強火にかけて沸騰させただけで、よそって口に含んだ汁は温かった。脂の灰汁が強くて吐きそうになった。もう何も口にしたくない。お茶を含んで横になった。布団はひきっぱなしで湿っていた。
 夢を見た。のっぺりとした壁に黄色いスプレーでNO HOMEWORK EVERと書かれていた。どこかで見た景色だった。部屋から外に出ると熱気が体を襲った。頭上で太陽が燃えている。空には雲一つなく、空気はひどく乾燥していた。遠くに壁が見える。赤いペンキで大きくCLEARと書かれている。あそこに行かなければいけない。礫が大地を埋め尽くしている。遮蔽物のない大地を太陽が焼いている。太陽は僕を焼き殺そうとしている。壁の向こうでは人々が太陽を神と崇めている。僕は行かねばならない。夜が来る前に、あそこに行かなくては。

 

                  ※※※

 

 4日目の朝、玄関に見覚えのないものが落ちていた。近づいて、電気をつける。それはアドベントカレンダーだった。ドアポストからねじ込まれたらしく、むき出しの箱は醜くつぶれていた。今年のクリスマスのものだった。カウントダウンがはじまるのは数週間先である。スマホの電源をつけるとメールが来ていた。

 

××さん
元気ですか、風邪をひいたと聞きました。チョコを持って行ったのですが、誰も出てこなかったのでドアのポストから中に入れておきました(外のポストには入りませんでした)。食べてください。では、お大事に。
                              イーサー

 

 メールは昨日の夜に来ていた。僕はイーサーさんに電話をした。彼はすぐに電話に出た。もしもしやこんにちはという言葉が出る前に、「何のつもりですか」と言っていた。
「お見舞いの品、見ましたか? それでも食べて元気を出して」
「別に良かったのに。もっとましなものなかったんですか?」
「甘いもの好きでしょ」
「……クリスマスなんて、ずっと先ですよ」
「貰い物だから。昔みたいに1日で食べちゃうんじゃないの」
「そんなこと、ありません」
「まあ、来年も、再来年の分も、先に食いつぶしてしまうような人ですからね、君は。後で、食べるものがないと言ってキリギリスみたいに困り果てる、長距離走とか苦手なタイプですね」 
「どうでもいいです」
眩暈がひどくて、声の出すのが億劫だった。「じゃあ、もう切りますね。ありがとうございました」と言って、通話を終えた。僕はアドベントカレンダーを拾わずに部屋に戻った。
 お腹は空いていたけれど、胃が固形物を受け付けなかった。僕は栄養ドリンクを開けて、数回に分けて少しずつ飲み、瓶を空にした。蓋を開けることすら数十秒の時間を要した。口の端から甘い液体が伝って、布団に吸い込まれた。ふと、全てがどうでも良いと思った。外でシジュウカラが鳴いている。廃品回収車がどこかを走っている。お風呂の換気扇が音を立てている。本当に、どうでも良い。僕は目を閉じで、布団の上に横になった。

 

                  ※※※

 

 アドベントという言葉の意味を知ったのは、ラジオの英語講座を聞いているときだった。「adventの原義はキリストの再臨ですので、ここでのadvent of the space ageというのは、救世主の到来のような、重大な変化をもたらすことだと……」。ラジオを聞いて、なるほどと思った。だから、アドベントカレンダーは救世主の再臨までをカウントダウンするものだと思っていたが、当然カウントダウンの最後はクリスマスで、名前は待降節の間に窓を開けていくことに由来するらしい。それでも、僕はカウントダウンがゼロになったときに、メシアが降りてくるシーンを考えしまう。
「クリスマスは預言者の生誕の記念日です。新約聖書のどこにも具体的な日にちは書いていません。あの日付に大した意味はありません。私の地元のコプト教徒は1月7日に祝っていますよ」
 昔、イーサーさんにこの話をしたら、そう返ってきた。その日の夜に、僕はメールで「イエス・キリストはいつ再臨するのでしょうか」と聞いた。10分後に「イーサーは人間です。預言者の一人です。僕の名前にもなっています」とイーサーさんから返ってきた。

 

                  ※※※

 

 起きると体が冷たかった。服がじっとりと濡れていた。体温計を探して床をまさぐると、くしゃくしゃになった服や空のお菓子の包装がそこにあった。空の栄養ドリンクに手が当たって、ドミノ倒しのようになって転がっていく。体温計は埃と毛の溜まった部屋の角に落ちていた。熱を測ると36・3度だった。
 青い光が部屋を仄明るくしていた。時計を見ると7時過ぎだった。キジバトが外で鳴いている。僕は布団から出た。鏡を見ると、白いシャツに、まるで吐瀉物が垂れ流れたかのように、麦茶の零れた跡が残っていた。
 何かを口にしたくて、辺りを見渡した。床にアドベントカレンダーが落ちていた。裏を見ると、賞味期限は1年半後だった。僕はチョコレートを一つ取り出して口にした。安っぽい味がゆっくりと解けていって口の中に粘りついた。お茶を口にして流す。お茶は作ってから1日経っていてひどく濃かった。カレンダーの「1」のところがぽっかりと空いた。僕は「2」に手を伸ばした。取り出して、口に入れて、お茶で流した。「3」を取りだす。取り出して、口に入れて、お茶で流し込む。「4」を取り出す。「5」「6」「7」……。僕は空になるまで食べ続けた。
 目の前に空の箱がある。手にチョコがべっとりついている。口の端からお茶がこぼれてシャツが濡れている。眩暈がした。昔読んだ詩に「水を求める獣のように」という表現があったことを思い出して、こういうことだと一人納得した。僕は空の箱をごみ袋に入れて、上から押しつけて中のゴミを圧縮した。
 机の上の手帳を開いた。最後に書いたのは5週間前だった。ページをめくっていくと、2月15日の枠に赤い字で「○○学部入試」と書かれていた。6か月前の自分の字だった。自分の字なのに、これを書き込んだのは僕ではない誰かのように思えてならなかった。これを書いた人物と自分は同じなのだろうか。同姓同名の人物が、僕にお願いしているのではないだろうか。しかし、それは今考えるべき問いではなかった。第一、まだ頭に糖分が回っていなかった。
 手帳をリュックに入れて、服を脱いだ。シャワーを浴びて、制服に着替えた。鼻血が出て、床に赤い点を作った。空気が冷たい。外はひどく晴れている。もうここは冬に足を踏み入れているのだと、今頃になって気付いた。

 

 

 

【最後まで読んでいただきありがとうございました。今後も鴨林軒をよろしくお願いいたします】

【企画説明】2021年6月度のテーマを発表します(南後りむ)

 6月がやってまいりました。今月から、鴨林軒は本格始動します。

 先週あたりによくわからぬ自己紹介小説が投稿されていたかと思います。まだお読みでない方は、ぜひそちらにも目を通してみてください。

 さて、その自己紹介小説にて、鴨林軒のコンセプトというか、これからの活動の方針に触れたわけですが、投稿した後になって、如何せんわかりにくかったような気がしてきました。ですので、まずはそのことについて記すことにします。

 そもそもわれわれ鴨林軒の活動は、小説、随筆、評論などの文芸作品を投稿することにあります。その際、ただ各々が好きなように書くというのではなく、あるテーマを設け、それに沿って作品を作ろうと考えています。テーマは月替わりで設定され、一週間に一人ずつテーマに関する作品を投稿するというのをひと月の活動内容にする予定です。

 

 さてさて、今月の食材、すなわち今月投稿する作品のテーマは「憂患」となっています。日本国語大辞典によると、憂患とは「心配し、心を痛めること。心痛。」という意味であるようです。6月はこの「憂患」について各々が創作し、毎週投稿する予定です。ぜひともそちらの方もよろしくお願いします。

 余談になりますが、「憂患」がテーマに選ばれた理由についてお話ししましょう。「心配し心を痛めること」というと、新型コロナウイルス感染症について真っ先に思い浮かぶかもしれませんが、今回の選定に際してはまったく関係ございません。何なら、特に深い意味を込めて選んだわけでもありません。

 選定方法は以下の通りです。テーマ決めの席に参加していた四人が、それぞれ1〜9までの数字を宣言します。続いて、その数字の積と和を計算します。たまたま手元にあった新明解国語辞典第7版の、「積」ページの「和」番目に記されている単語が「憂患」だったというわけです。ちなみに、出た数字は4、6、8、8でした。

 偶然にしては時勢を反映しすぎて少々驚きましたが、何はともあれこうして今月のテーマが決定しました。このテーマを受けて作成された作品については、順次発表してまいりますので、ぜひお楽しみいただければと思います。