鴨林軒ハテナ支店

文芸同人の鴨林軒です。

【小説】アドベントカレンダー(西文貴澄)

 

 

 昔、イーサーさんがアドベントカレンダーを買ってきてくれた。
 クリスマスツリーの形をした箱がカレンダーになっていて、日付のところを押してくりぬくと中から小さなチョコが出てくる。暖かいところに置かれていたのか、出てきたチョコはどれも表面が白っぽくなっていた。
 イーサーさんは2つ買って、僕と毎日1つずつ食べるつもりでいたが、イーサーさんが帰った後、僕は1日でチョコを全部食べてしまった。イーサーさんは「なんてことするんだ」と言って怒ってしまった。
 けれど、後々考えたらきっとその方がよかった。毎日1個しかチョコは食べられない。食べた後で、次のチョコに手を伸ばすのを我慢して、また明日と自分に言い聞かせないといけない。そうやって1か月食べ続けて、クリスマスの日に最後のチョコを食べる。最後の1つを食べた後で、全部の日付がくり抜かれた空の箱が残る。匂いを嗅いだり振ったりするけれど、当然箱は空で、飾るにも不格好で、どうしようもないのでごみ箱に捨てる。30日が経っても何にもない。何を待望して一日一日を数えていたのか自問をする。カウントダウンがゼロになっても、何も生まれず、何も消えていかない。全部の窓が開いて、すっからかんになって、自分のところには何も来なかったなぁって言って次の日から普通に過ごす。ひどく不憫だ。
 だったら、最初から全部食べてしまって、おいしかったねって何ともないことのように言って、二度と振り返らない昨日のことにしてしまいたい。

 

                  ※※※

 

 朝起きると体が重かった。机の上のコップに口をつけると、口の端からお茶が零れ落ちた。寝不足のせいだと考えてシャワーを浴びたが、体は軽くならなかった。熱を測ると37・6度だった。
「やってしまった」と思った。この時期に休むことだけはしたくなかった。しかし、熱がある以上は学校へ行けない。
 腸を断つ気持ちで高校に休みの連絡を入れた。知らない先生が電話に出た。僕は「あ、おはようございます」と切り出した。
「3年2組の××××と申します。今日熱があって、学校に行けそうにないので。担任に伝えていただけますでしょうか」
「はい、わかりました。3年2組の××さんですね」
「はい」
「担任は内田先生ですね。はーい、了解です。伝えておきます」
 先生は最後に「お大事に」と言って通話を切った。スマホのホーム画面には「入試まであと105日!」と、カレンダーの通知が出ていた。
 朝食は食べられなかった。ヨーグルトを大匙1杯食べただけでお腹がいっぱいの気分だった。仕方なく、僕はずっと布団に籠っていた。
 本当は無理をしてでも学校に行きたかった。世界史は1コマ休むだけで置いていかれる。それでも、無理をして長引かせるわけにはいかなかった。体調を整えることに集中して、明日には復帰しなければならない。
 僕はスマホも見ずに布団の中でじっとしていた。熱を出した時、安静にしていても、何か作業をはじめるとすぐに体調が悪化するのはどうしてだろう。そのせいで、眠くもないのにただ布団に籠っていなければいけない。
 布団から顔を出して、薄暗い部屋の天井を眺めた。朝の外光が淡い青色をしている。いつもは誰もいない部屋に今日は横たわっている。ごみ収集車の音がする。燃えるゴミを出すのを忘れていた。今から走っても間に合わない。僕は静かに走り去っていく音を聞いた。


 安静にしていたのに、熱は上がっていた。熱を出さなければ出来たことを考えるだけで吐き気がした。
 昼過ぎにクラスメイトに連絡した。「熱出ちゃって」「だから今日いなかったのねー」「何か連絡事項とかあった?」「世界史で新しいプリント配られたよ」「もしよかったら帰りに届けてくれない、できたらでいいよ」「ごめん今日塾だから届けられない」「そっか、ならいいや」「ごめんね、お大事に~」、最後に金髪の女の子が目をギュッとして「お大事に!」と言っているスタンプが送られてきた。僕は緑色の髪の女の子が「ありがとう!」と親指を立てているスタンプを送った。10分後に見たときには既読はついていなかった。
 今頃は学校にいるはずだった。陽の当たる隅っこの席で授業を受けて、帰ってきたら英文標準問題精講を10問済ませて、ヴェルサイユ体制の予習を終わらせていた。手帳の上ではそのように予定されていた。それが出来ない。このままいけば今日1日は何もできない。起こってしまったことは仕方がない。だからずるずると引きずらずに明日からのことを考えればいいのだけれど、そう上手く理性的に感情は動いてくれない。
 このまま眠ってしまって、気づいたら次の日になっていればいい。だが意識を消したくても、消すことはできない。そのうちに自分の惨めな姿が一つ一つ思い出されてきて、寝転がっていることすら辛くなる。空気は冷たいのに体は熱い。湿った布団が鬱陶しい。時計を見ると、さっき時間を確認してから10分しか経っていなかった。
 ふぅと深く息を吐いた。上手く呼吸ができなかった。耳鳴りがする、天井が遠い。部屋を見上げていることが不思議だった。時間はない。僕は早く健常にならなければいけない。身体は怠いのに、目は嫌なほど冴えていた。 

 

                  ※※※

 

 この時期になるとクラスに来ない人が一定数いる。実態はわからないけれど、どうやら学校に来ずに家と塾で勉強しているらしい。そういう人は出席日数のために時々学校にやってきて、気まずいような素振りもなくケロッとしている。ある人は「単位落とせ」と陰で言い、ある人は何にも言わず、ある人は気に留めない。
 来ない人は往々にして成績が悪い。学校での無駄な時間を削っている分、勉強時間は増えているはずなのに、テストの点数は冴えない。学校では、来ない人=成績が悪い人という通念が出来上がっていた。彼らは、合理的な生活というものを追求して、全てを受験勉強に注いでいるにも関わらず、実績を伴わない、そういう可哀そうな人という意識が、学校では共有されていた。しかし、実のところ、その来ない人の中には、成績の良い人が1人か2人いた。その2人のいない教室で、先生は学校に来ている人は偉いと言う。その1人2人より君たちは偉いと言う。その言葉の受け取り手は、2人よりも成績が悪かった。成績の悪い人は、学校に来る奴は偉いという言説を支柱にして、自分の実力に目を瞑って、自身の足元の土を固める。先生を含め誰も彼もが成績という物差しで「高校生」とか「受験生」いう生き物を創り上げているというのに、そこでだけは成績を無視する。5段階ないし10段階の成績と、通知表に並ぶ順位を捏ねて自らを創っているというのに。過程においてかけた時間と努力は問われないはずなのに。
 この、意味の分からない世界が、僕の背中に支柱として埋め込まれていた。僕の背中を貫いて、首と頭を支えている。この背骨が缶詰の魚の背骨のようにボロボロと崩れてしまった時、何が残るのか、僕は知らない。
 今頃僕は、学校を「ずる休み」している奴だと思われているかもしれない。神に誓って言うが、僕は何もしていない。本当に、何もしていない。教室にぽっかり空いた席が頭に浮かんだ。教室は、窓が開いていて、秋の涼しい風が通り抜けている。冷房がついている。カーテンが音を立てて波打っている。笑い声が上がる。その中に空席がある。余った席か。学校をさぼっている人間の席か。それとも僕か。ふと、『ハイファに戻って』の一節が思い出された。「私はこのハイファを知っている。しかしこの町は私を知らないというのだ」。学校は僕を知らない。

※※※

 寝込んでから2日が経った。一時的に熱が37度を下回っても、しばらくしてまた熱が上がった。僕が寝ている間に学校で15コマの授業があった。他の人はそれを受けた。僕は受けなかった。3日間、僕は寝ていた。その間、他の人は赤本が4年分解けた。単語帳が半周できた。僕は何もしなかった。
 手帳に書かれた予定は、言うまでもなく完全に狂っていた。次の日から1週間で後れの分を挽回する予定を、3日間連続で書き込んでいた。手帳の表は3回更新され、書き込んで塗りつぶしてぐちゃぐちゃになって、何が書いてあるのかわからなかった。
 ふと、僕はこの状態を望んでいたのではないかと疑った。不可知な無意識の世界は僕の体の免疫を弱めてウィルスの増殖を許している。僕の知らない深層心理が、訳はわからないけれど、望んでいる。それが合理的なのか、非合理的なのかはわからない。合理というものに基づくことが正しいのか正しくないのか。正しいという尺度は無意識に存在するのか。何もわからないけれど。
 体に力が入らかなった。壁にしがみついて立ち上がった。台所に行った。すでに夕方だった。外で時々人の通り過ぎる音がする。
 コンロに昨日作ったうどんがあった。昨日どうにか作れたけれど、食べる頃には寝る時間だった。汁の表面で肉の脂が固まっていた。食欲がないにも関わらず、消費期限が切れそうだからと入れた牛肉だった。脂を掬ってキッチンに捨ててからごみ箱に捨てればよかったと後悔した。野菜の欠片と脂が排水溝で一緒になっているのを見て嫌になる。また掬ってゴミ箱に捨てようとすると、オタマに油がくっついて離れない。しばらく振り続けて諦めた。火をつけると油が溶けて元の鍋に戻っていく。数分強火にかけて沸騰させただけで、よそって口に含んだ汁は温かった。脂の灰汁が強くて吐きそうになった。もう何も口にしたくない。お茶を含んで横になった。布団はひきっぱなしで湿っていた。
 夢を見た。のっぺりとした壁に黄色いスプレーでNO HOMEWORK EVERと書かれていた。どこかで見た景色だった。部屋から外に出ると熱気が体を襲った。頭上で太陽が燃えている。空には雲一つなく、空気はひどく乾燥していた。遠くに壁が見える。赤いペンキで大きくCLEARと書かれている。あそこに行かなければいけない。礫が大地を埋め尽くしている。遮蔽物のない大地を太陽が焼いている。太陽は僕を焼き殺そうとしている。壁の向こうでは人々が太陽を神と崇めている。僕は行かねばならない。夜が来る前に、あそこに行かなくては。

 

                  ※※※

 

 4日目の朝、玄関に見覚えのないものが落ちていた。近づいて、電気をつける。それはアドベントカレンダーだった。ドアポストからねじ込まれたらしく、むき出しの箱は醜くつぶれていた。今年のクリスマスのものだった。カウントダウンがはじまるのは数週間先である。スマホの電源をつけるとメールが来ていた。

 

××さん
元気ですか、風邪をひいたと聞きました。チョコを持って行ったのですが、誰も出てこなかったのでドアのポストから中に入れておきました(外のポストには入りませんでした)。食べてください。では、お大事に。
                              イーサー

 

 メールは昨日の夜に来ていた。僕はイーサーさんに電話をした。彼はすぐに電話に出た。もしもしやこんにちはという言葉が出る前に、「何のつもりですか」と言っていた。
「お見舞いの品、見ましたか? それでも食べて元気を出して」
「別に良かったのに。もっとましなものなかったんですか?」
「甘いもの好きでしょ」
「……クリスマスなんて、ずっと先ですよ」
「貰い物だから。昔みたいに1日で食べちゃうんじゃないの」
「そんなこと、ありません」
「まあ、来年も、再来年の分も、先に食いつぶしてしまうような人ですからね、君は。後で、食べるものがないと言ってキリギリスみたいに困り果てる、長距離走とか苦手なタイプですね」 
「どうでもいいです」
眩暈がひどくて、声の出すのが億劫だった。「じゃあ、もう切りますね。ありがとうございました」と言って、通話を終えた。僕はアドベントカレンダーを拾わずに部屋に戻った。
 お腹は空いていたけれど、胃が固形物を受け付けなかった。僕は栄養ドリンクを開けて、数回に分けて少しずつ飲み、瓶を空にした。蓋を開けることすら数十秒の時間を要した。口の端から甘い液体が伝って、布団に吸い込まれた。ふと、全てがどうでも良いと思った。外でシジュウカラが鳴いている。廃品回収車がどこかを走っている。お風呂の換気扇が音を立てている。本当に、どうでも良い。僕は目を閉じで、布団の上に横になった。

 

                  ※※※

 

 アドベントという言葉の意味を知ったのは、ラジオの英語講座を聞いているときだった。「adventの原義はキリストの再臨ですので、ここでのadvent of the space ageというのは、救世主の到来のような、重大な変化をもたらすことだと……」。ラジオを聞いて、なるほどと思った。だから、アドベントカレンダーは救世主の再臨までをカウントダウンするものだと思っていたが、当然カウントダウンの最後はクリスマスで、名前は待降節の間に窓を開けていくことに由来するらしい。それでも、僕はカウントダウンがゼロになったときに、メシアが降りてくるシーンを考えしまう。
「クリスマスは預言者の生誕の記念日です。新約聖書のどこにも具体的な日にちは書いていません。あの日付に大した意味はありません。私の地元のコプト教徒は1月7日に祝っていますよ」
 昔、イーサーさんにこの話をしたら、そう返ってきた。その日の夜に、僕はメールで「イエス・キリストはいつ再臨するのでしょうか」と聞いた。10分後に「イーサーは人間です。預言者の一人です。僕の名前にもなっています」とイーサーさんから返ってきた。

 

                  ※※※

 

 起きると体が冷たかった。服がじっとりと濡れていた。体温計を探して床をまさぐると、くしゃくしゃになった服や空のお菓子の包装がそこにあった。空の栄養ドリンクに手が当たって、ドミノ倒しのようになって転がっていく。体温計は埃と毛の溜まった部屋の角に落ちていた。熱を測ると36・3度だった。
 青い光が部屋を仄明るくしていた。時計を見ると7時過ぎだった。キジバトが外で鳴いている。僕は布団から出た。鏡を見ると、白いシャツに、まるで吐瀉物が垂れ流れたかのように、麦茶の零れた跡が残っていた。
 何かを口にしたくて、辺りを見渡した。床にアドベントカレンダーが落ちていた。裏を見ると、賞味期限は1年半後だった。僕はチョコレートを一つ取り出して口にした。安っぽい味がゆっくりと解けていって口の中に粘りついた。お茶を口にして流す。お茶は作ってから1日経っていてひどく濃かった。カレンダーの「1」のところがぽっかりと空いた。僕は「2」に手を伸ばした。取り出して、口に入れて、お茶で流した。「3」を取りだす。取り出して、口に入れて、お茶で流し込む。「4」を取り出す。「5」「6」「7」……。僕は空になるまで食べ続けた。
 目の前に空の箱がある。手にチョコがべっとりついている。口の端からお茶がこぼれてシャツが濡れている。眩暈がした。昔読んだ詩に「水を求める獣のように」という表現があったことを思い出して、こういうことだと一人納得した。僕は空の箱をごみ袋に入れて、上から押しつけて中のゴミを圧縮した。
 机の上の手帳を開いた。最後に書いたのは5週間前だった。ページをめくっていくと、2月15日の枠に赤い字で「○○学部入試」と書かれていた。6か月前の自分の字だった。自分の字なのに、これを書き込んだのは僕ではない誰かのように思えてならなかった。これを書いた人物と自分は同じなのだろうか。同姓同名の人物が、僕にお願いしているのではないだろうか。しかし、それは今考えるべき問いではなかった。第一、まだ頭に糖分が回っていなかった。
 手帳をリュックに入れて、服を脱いだ。シャワーを浴びて、制服に着替えた。鼻血が出て、床に赤い点を作った。空気が冷たい。外はひどく晴れている。もうここは冬に足を踏み入れているのだと、今頃になって気付いた。

 

 

 

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