鴨林軒ハテナ支店

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【小説】蟻とバス(南後りむ)

 

 午後四時を過ぎたころ、駅前のバス停には十名ほどの列ができていた。その最後尾に、学校帰りの男子高校生がスマホを片手に立っていた。その視線は当然ながらスマホの画面――会員制交流サイトとやらが表示されていた――にやられていた。その目は特に熱心になにかを見るというでもなく、気だるげだった。息をするように他人の投稿を眺め、特に何か思うということもなく、また息をするように――或いは食い物を咀嚼して、嚥下して、消化するように、画面をスクロールしてまた次の投稿を眺めていた。いや、彼にとってはまさしく消化と同じで、気にも留めない生理活動の一環として行われているようであった。
 そういう事で、投稿の内容に意識を向けているのかも怪しいものだったが、しかし彼の視線はしっかりと画面を見ていたらしい。というのも、彼は不意に目に飛び込んできたある投稿を見て、気だるそうな目を鋭くさせた。少しばかり、不機嫌そうな目つきだった。
『模試の結果返ってきたけどE判ばっかでやばかった~~!今年受験なのにやばいかも(笑)』
 彼は舌打ちをすると、スマホをズボンのポケットにしまった。ちょうどそれと同時に、バスがその接近を知らせるチャイムを鳴らしながら、バス停に滑り込んできた。
 列は順々にバスの中へなだれ込んでいき、彼もその一番後ろについていった。並んでいた人が多かったので座れないかもしれないと彼は思ったが、目の前に並んでいた利用客たちはみな奥の席についたらしく、入ってすぐのところにある一人掛けの椅子があいていた。彼はその席に腰掛けた。
 まもなくバスは出発した。家まではここから停留所が五つ、時間にして十分程度である。彼はズボンのポケットに手をかけて、それからはっと手を離した。先ほどの彼を不快にした投稿が思い出されたのだった。すこぶる機嫌の悪くなった彼は、カバンをあけて、中から英単語帳を取り出そうとした。カバンの中はなかなか汚かった。所々折れ曲がった授業のプリントで埋め尽くされていた。そのプリントをかき分けながら目当ての単語帳を探すうち、彼の目にクシャクシャになった薄い冊子が飛び込んできた。瞬間、彼はそれを片手で握りつぶした。それは、『高三全国統一模試』の成績表であった。
 汚いプリントの屑の中からようやく単語帳を釣り上げた彼は、カバンを閉じて足元に追いやった。カバンへの扱いは、少しぞんざいなものだった。
 彼は単語帳を開いた。分厚い単語帳は、カバンの中のプリント類と比べて幾分か小綺麗だった。外見は少し汚れていたけれども、中はまったく新品のようであった。彼は最初の単語から順繰りに目で追っていった。スマホを眺めるときと同じように、特に熱心な様子はなかった。
 最初のバス停についた。人が何人か乗ってきたが、彼は気にせず読み進めた。二番目のバス停を、バスは通過していった。そうして三番目のバス停に差し掛かるかどうかというところで、彼は急に単語帳を閉じてしまった。五ページも進んでいなかった。彼はすこぶる不機嫌そうであった。その目には、焦燥の色が微かに浮かんでいた。
彼の頭に、不意に先ほどの投稿の一節が浮かんできた。
『受験なのにやばいかも(笑)』
 笑い事じゃない、と彼は内心憤りを感じていた。それは他ならぬ、彼自身へ向けられたものであった。
 今までに何度危機感を覚えてきたことか。模試の結果が返ってくるたび、定期考査が行われるたび、或いは担任の教師と個人面談を行った時など、毎度のように「いまのままではいけない」と思ってきた。そして、自らを奮い立たせて机に向かおうとした。しかし、悉く挫折した。なにしろ単語の勉強ですら五分と続かないのだ。いわんや真面目に勉強などできるはずがない。
 彼はそれが自分の飽き性によるものだと知っていたし、近頃は半ば諦めのようなものを抱いていた。友人や先輩、それから教師に助言を仰いだりもしたが、まったくの無駄だった。彼らの言う通りやろうとしても、結局うまくいかない。うまくやっている人のやり方ならば自分を変えられるだろうと期待した分、結局効果のなかったことに対して余計にいら立ち、また絶望もした。そうして、彼は余計に諦念を抱いていった。
 しかし、諦めたところで大学受験はやってくる。既に十月の半ば、本番まで三か月ほどしかない。受験をしない、という選択肢もあったのだが、彼のどうしようもない虚栄心がそれを拒んだ。何もできないくせにプライドばかり高い、どうしようもない人間だということは、彼が一番よく分かっていた。だからこそ、彼は余計に自分が嫌になっていた。
 バスは三つ目の停留所を過ぎた。彼はため息を吐いて、単語帳をカバンにしまおうと屈みこんだ。その時、彼の目の前の壁を、黒い塊がもぞもぞとしているのが目に入った。よくよく見てみると、それは一匹の蟻だった。
 反射的にカバンから不要な紙を取り出した。それで蟻を潰そうという算段だった。特に理由はなかったが、普段家に入ってきた蟻を逐一駆除しているからかもしれない。
 とにかく、彼はなんとも思わずその蟻を潰そうとした。しかし、潰そうとしたその時、不意に彼は自分の手を止めた。罪悪感が芽生えたわけではなかった。彼が反射的につかんだ紙が、例の『全統模試』の成績表だったのだ。その紙が目に入って、一瞬彼は動揺した。
 その間に、蟻は壁伝いにバスの窓まで歩いていた。その様は、少し右往左往しているように見えた。その姿を見ているうち、彼ははたと自分のしていたことがまったくの不必要なものだと思い至った。この蟻は、自分が手を下すこともなく、じきに死ぬはずだからだ。
 本来蟻というものは土の中に巣を作る生き物だ。バスの中には作らない。つまり、この蟻はどういうわけか、可哀そうにバスの中に迷い込んできたのである。そして、二度とバスを降りることは叶わないだろう。バスは蟻にとって、大きすぎる牢獄のようなものだ。永遠に抜け出せない、牢獄。
 そう考えると、なんだか蟻が可哀そうになってきた。バスは四つ目のバス停を過ぎた。彼は、目の前の柱についている降車ボタンを押す。「次、とまります」というアナウンスが車内に響いた。「停留所にとまってから、席をお立ちください」
 彼は手に持った成績表を見た。これで潰そうと思ったが、軽く包んでバスから降ろしてやるのもいいかもしれない。そうしてバス停の前で放ってやれば、蟻は見事バスから脱獄し、幸せに過ごせるに違いない。そう思って蟻の方を見たら、窓枠をつたって後ろの席の方へと歩いているところだった。少し考えている間に、だいぶ進んだらしい。彼の目には、蟻が健気にも自分自身の力で出口を目指しているように映った。
ああ、可哀そうに。彼は蟻の救世主になった気分で、クシャクシャになった模試の成績表を広げた。そうして、蟻を捕まえようとした。だが、蟻は意外にも素早くかわした。なんだ、助けてやろうとしているのに。彼は少しつまらなくなった。もう一度捕まえにかかった。今度は、うまくいった。蟻が逃げ出さぬよう、彼は成績表を軽く丸めた。
 バスの前方を見ると、まもなく見慣れた停留所が近づいてきた。さて、降りるか。彼は立ち上がろうとしたが、走行中の移動は危ないとさんざんアナウンスで注意がなされていたのを思い出して、律儀にバスがとまるのを待つことにした。暇なので蟻の入った包み紙――模試の成績表に目をやった。見るのも嫌な紙だった。家に帰ったら捨てようと思った。
 その時、彼の頭に突拍子もなくある考えが浮かんできた。いま捕まえた蟻は、はたして無事に家まで帰ることができるのだろうか。否、無理だ。彼はすぐに頭の中で否定した。この蟻は、一体全体どこで乗車したのだろうか。仮に次のバス停で自分と一緒に降りたとして、その近くに巣があるとも限らない。むしろ、ない可能性の方が高い。そうすると、結局この蟻は自分の家に帰ることができずに、孤独に街を彷徨うことになるのではないか。
 どうする? 彼は自分に問いかける。バスがとまって、ドアが開いた。彼は咄嗟にクシャクシャの紙を広げると、中をうろうろしていた蟻を手で軽くつかみ、それからバスの窓枠におろしてやった。蟻は何事もなかったかのように、また歩き始めた。
 ドアが閉まる前に、荷物を抱えて急いでバスを降りる。結局、赤の他人である自分が、蟻に手を差し伸べることはできないのだ。よかれと思って差し出した手は、結局、「自分がいいと思う」手なのであって、それが他人にとってもそうであるとは限らないし、もしかしたらそうでないことの方が多いかもしれない。
 結局、あの蟻がどうなるのか、またどうしたかったかなど、彼には皆目見当もつかない。蟻を乗せたバスがノロノロと走り去ってゆくのを、彼はしわの寄った成績表を握りしめながら、ずっと眺めていた。