鴨林軒ハテナ支店

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【小説】庭たずみ(広瀬喜六)

 

 記号の与えられない感情をしまっておくには人間はちっぽけだよ。なんてきざなことを言った彼はどこへ行ったか知れない。彼は、ちょうど彼自身が思っていたよりもずっとちっぽけな人間だったのかもしれない。
 田坂さんは、記号の役割は個別的な差異に気が付くようにする事なんじゃないかな、といって画廊を出ていった。それはちょうど5分前の事で、あなたはそれから彼を見ていない。田坂さんとは銀座でよく出会った。もちろん金などないものだからもっぱらきらめく街のショーウィンドウを眺めながら松竹の演劇の図書館に通っていただけだったのだけれど、田坂さんのほうはというとそれなりに稼ぎのある人だったから昔風の日本画が好きで画廊を回っていたのだった。ずいぶん年上だから田坂さんは会うと必ず有楽町の駅前の交通会館の地下でラーメンを食べさせてくれる。ラーメンを食べながら田坂さんは笑って、いや、まあ私もそうお金持ちというのではないからね、とだけ言うのだった。田坂さんはあまりおしゃべりな人でもないからそれくらいで話が終わってしまう。

 今日はちょうど知り合いが貸画廊で個展を開くというからその手伝いに来ている。彼は人のいいやつだから手伝う気にもなったが、ずいぶん退屈な絵が並んでいるだけだ。彼は大学で知り合ったもので、日本画の専攻だった。絵を描くことだけが好きな奴で技術は極めて高度なんだけれど、どうにも退屈に思われた。なにかが組み合わさっていないと思われてしまったからかもしれない。

 どうにも退屈だから田坂さんが回ってきたときにはすこしほっとしたようにも思われた。ほっというのは不思議なもので安心感というのより息が漏れ出していくというような印象がある。漏れ出した息は画廊の床を伝って階段の方に流れていった。田坂さんは絵を一回り見ると彼に何か話していた。何話してらしたんですと聞くと、いや、ちょっとね、と言うだけで、別段気になってもいなかったから、そのまま別の話をつづけた。

 その前に別の知り合いの展示を手伝ったときも田坂さんがきていた。その時田坂さんはその子を含めて新橋の居酒屋でおごってくれたのだったと思う。それはヤマヤで買った下から3番目に高いワインのアルコールが良くなかったものだから\、田坂さんが悪酔いしていたためだろう。その時田坂さんは何を見ていたのだろう。田坂さんが何をしていたか、知り合いと話しているばかりだったからあまり覚えていない。居酒屋を出るとすぐに田坂さんとははぐれてしまって、次に会ったときにはずいぶん恐縮してしまった。なんとなく謝ってしまったが、すぐに特に謝る理由もないかと思い直した。田坂さんにあの後も飲んでいらしたんですかと聞いてみると、いや、別にと言葉を漏らした。漏れ出た言葉が蒸発して淀んだ雲になったものだから、少し冷ややかな風を感じた。冷ややかな風が吹き抜けると五月の憂鬱な空気が少し流されて行って、誰か別の人のところに行ったように思われた。

 こんどは田坂さんに、いつも駅の前で別れますけど、どこ行きなるんですか、何線の駅でも駅ちょっと前で別れますよね、なんて軽口をたたいてみたが、田坂さんは年を数えなおすようにゆっくりと、深く吐息を漏らした。漏れでた息はやはり床を流れて階段の方へ向かっていった。田坂さんはそれから、「あなたの感覚と私の感覚は、例えばこの彼の絵を見ても異なるはずだね。しかしともに美しいとか美しくないとか、美であったり美的概念であったりを振り回して話をするわけです。すると、記号の役割は個別的な差異に気が付くようにする事なんじゃないかな。」とだけ言って画廊を出ていった。田坂さんはワインを飲む前に帰ってしまった。

 例の彼を最後に見たのもこんな日だったかもしれないとふと思い出す。田坂さんももう会わないのかもしれない。しかし、例の彼を最後に見たのではないし、だれだったか忘れたが最後に見たというのはあなたの見たよりそれなりに後の事だったから別段どうという関係もない。個人の感興と彼の失踪には相関関係すらも存しない。こんなことで物語は始まらないのだ。
 銀座の街に下りていくと、そこは流れ出した人々の吐息でうっすらと水を張っているようだった。日本画の彼が今日は月がきれいな夜だねといったけれど、あなたはそうは思わない。銀座の町は上の照明と下を流れる吐息の照り返しとで全く明るくって、うっすら雲のかかった空は白く光ってさえいるようだ。ぼんやりと白く出ている月は半月と下弦のあいだくらいで、しかしそのちょうどあいだの様子から二日ほどずれている。

 階段から吐息の方へ足を踏み出せないでいると、日本画の彼がまだ空けていないワインがあるからとあなたを画廊に誘いなおす。あなたは断って一歩を吐息に踏み出した。人々の吐息は案外暖かくて、湯気が止んだくらいのコーヒーの口当たりに似ているのだろうとあなたは思う。あなたが人々の吐息をかき分けながら歩いていると、遠くに田坂さんが見えた。あなたも裸足で歩いてみなさいと声をかけられている様な気がして、あなたは靴を脱いでみる。暖かいのですね、とあなたが声を漏らすと、流れ出た声が吐息に混ざり合って、彼のもとに届いたらしく、ゆっくりと、そして深くうなずいているようだった。

 そのままあなたは有楽町へと向かう。田坂さんは谷の隙間に消えていく。あなたは明日も田坂さんと会うのだろう。信号の押しボタン箱は鳴いている。

 

庭たずみ挿画