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【小説】巡礼の年(西文貴澄)

 

 巡礼の年を迎えた。16歳の時に『方法序説』を読んでから、18歳になったら旅に出ると心に決めていて、私はそれを巡礼の年と呼んでいた。
 巡礼と言っても、メッカに行くわけでも、お遍路さんに行くわけでもない。そういう、目的を持った崇高な旅ではなく、ただ、自分の思いを昇華させるための旅だった。その本のある一節を目にしてから、啓示のように、旅に出なければならないと悟った。自分よりも中性的な声が、頭の中でその一節を何度もなぞった。私は巡礼の旅に出るほかに、選択肢がなかった。
 私は放課後、図書館に籠って事細かに計画を立てはじめた。地理の棚にある本を隅から隅まで読んで、大陸に一本の道を描いた。親には「かわいい子には旅をさせよ(可愛くなくても)」と何度も言い聞かせた。計画を書き詰めたノートは3冊にまとまって、私はそのキャンパスノートを胸に、静かに18歳になるのを待った。毎晩、マッキーで表紙に書いた上・中・下の字を眺めてから、ベッドに入った。幾度もその日を想像して、その先に待っているものを思い描いた。
 3月の中旬、出立の日が来た。飛行機は大阪空港を出て青島に向かった。青島を経由して、私はウルムチへ向かう。荷物はリュクサックと中くらいのボストンバックにまとめて、全て機内に持ち込んだけれど、母がペットボトルに詰めてくれた念のこもった特製レモンジュースは、2口しか飲まないうちに、空港の検査で没収されてしまった。初めての飛行機で、アナウンスやシートベルトのサイン一つ一つにドキドキした。はじめての体が浮遊する感覚の中で、旅程を復習しようとリュックサックを開けると、そこにあるはずのものがないことに気が付いた。上・中・下のノートの「中」がなかった。
 私の巡礼の旅は、計画書を欠いたままはじまった。どこかの国の諺では「はじまりは半分である」と言うし、最初の一歩を踏み出した時点で半分は上手くいっている、そう考えて私はその先を楽観するように努めた。

 

 ウルムチで一泊してから、南彊鉄道に乗って西へ向かった。14時発、和田行。駅の検問を抜けて乗った車両は、一番安い切符を買った人の集まる硬臥車だった。
 寝台列車は3段ベッドで、最上段が一番安かった。一つの個室に6つのベッドがある。最上段のベッドに荷物を置いてから、私は通路から外を眺めた。曇ったガラスの向こうで、灰色の空と乾ききった大地の二色が、どこまでも変わらなかった。時々風力発電所が見えるだけで、砂漠には何もなく、ただ風がひどく強い。
 全く変わらない景色に見飽きて、ベッドでぼんやりと本を読んでいると、反対側で寝ていた男が声をかけてきた。中国語がわからず、ただ相手の黒ずんだ額を見つめていると、私の持っている本を指さした。後から考えてみると、それは中国語ではなかったかもしれないが、とにかく、その『方法序説』を指さして、男はしきりに本をくれるよう頼んでいるらしかった。男はカバンから缶を数本取り出して、差し出してきた。ザクロの絵がプリントされた大きな缶で、びっしりと並ぶ漢字はよくわからなかった。
 ボロボロになりつつある『方法序説』は、私にとってお守りのようなものだった。日本に帰ればいくらでも買えるけれど、私はおいそれと渡したくはない。しかし、男も折れず、終わりが見えなかったから、とうとうこちらが折れてその本を渡してしまった。
 本は男の手に渡った。日本語で書かれた本をどうやって読むのだろうと思ったら、男はそれをカバンにしまい、そのまま寝てしまった。私の手元には4本の缶がある。中身が気になったけれど、開けてまずかったら、食べきれる量ではない。しかし、缶は持ち運ぶには非常に重い。私は缶を布団の上に並べて、そのまま寝てしまった。
 起きると、外は真っ暗だった。デッキに出て、外を眺めようとしたが、何も見えず、車内と私の顔が映っていた。日本を出るときに伸ばしていた髪をバッサリと切ってしまってから、人格までもが変わってしまった気がする。なんだか自分探しの旅みたいで、こぱっずかしいと思っていたけれど、自分を見つける旅というよりは、自分を一から作る旅なのかもしれない。今他人の手に渡ってしまった本の、「世界という大きな書物」という言葉に引き付けられてから、私は予感していた。不定形の私が少しずつその形を見る日を予感していた。
 書物を通しての学問に懐疑的になったデカルトは、学校を卒業してから、「世界という大きな書物」の中でしか探求できないものを学ぼうと、世界に飛び出した。きっと、本より大事なものが、この先にある。このデカルトなんて偉人には及ばないけれど、この私の巡礼にも。

 

 南彊線は、カシュガルからは南下して、ホーテンへ向かってしまう。中国の国境を越えて西へ進むには、下車して車に乗らなければいけない。
 カシュガルには翌朝8時に着いた。そのまま休まずに乗り合いタクシーでイルケシタムに向かおうとすると、イルケシタムの国境は閉鎖されていた。バスターミナルで他の行き方を聞いた結果、カシュガルの旅行会社の車で、トルガルト峠から北に抜けることになった。
車は雪を薄くまとった岩山の中を半日走って、トルガルトに向かった。そこでキルギス側の旅行会社の車に乗り換える予定だったが、着いてみると、その車はまだ来ていなかった。旅行会社の人にいつ来るか聞いたが、知らないと言われた。そのまま、キルギスの車が来ないうちに、運転手はそのまま引き返してしまった。信じられなかった。それから30分経っても、それらしき車は来なかった。
 標高3000mの国境に取り残されてしまった。本当に車は来るのだろうか。電話は繋がらない。視界に収まらないほど広い山の間を、冷たい風が通り抜けて、もはや風以外の音が聞こえない。仕方がなく、関を超えてから、トラックやトレーラーを眺めていた。載せていってくれそうな人がいたら声をかけるつもりでいたが、昨日は一日中電車に乗り、今日は半日車に乗っていた。疲れ切って動けそうになかった。
 フェンスに寄りかかって目前に迫る裸の山を眺めていると、若い女性を連れた男の人が声をかけてきた。
 二人はニット帽をかぶっていた。何を言っているかわからないが、その言葉の中に、明らかに私の名前が入っていた。私が必死に頷くと、彼はまくし立てて様々なことを話していた。それを途中で遮って、横の女の子が拙い英語で、事の顛末を教えてくれた。旅行代理店が手違いで車を出せなくなった。代わりに私たちがあなたの迎えに来た。あなたのホテルの代わりに、私たちの「テント」に泊まってもらう。元の値段の半額を彼らに払う……。2人が私のお迎えだった。私はその人たちの車に乗って「テント」へ行くことになった。

 

 軽トラックには2つしか席がなく、女性が後ろの荷台に乗ると言った。
私はそちらで良いということをどうにか伝えたが、結局2人で荷台に乗ることになった。スケールのわからないほど大きな岩山の間を、車は下っていった。雪に薄く覆われて、どこまでも途切れない。時間が経つにつれて寒くなっていく。リュックを抱えて足をギュッと抱えていると、女性がマフラーを貸してくれた。何と言っていいかわからず、私は頭を下げただけだった。リュックに目を落とすと、どこかに落としたのか、リュックに結んでいたお守りがなくなっていた。
 しばらくして山を抜けると、小さな草原が現れた。空の青と大地の緑、それを切り裂くアスファルトの色が眩しい。遠くに雪山が連なっている。しばらくしてモネの積み藁のような形が見えてきた。それは白いテントだった。より正確にはユルタの集落の住居だった。
 促されるままにテントの一つに入った。そこはゲスト用に整えられたテントらしく、誰もいなかった。食事になったら呼ぶ、どこかに行くときは声をかけて……。女性がそう言って出ていく前に、リュックに入っていた謎の缶を渡した。何もかもお世話になって、少し情けなかった。彼女はありがとうと言ったらしかったが、中国語でも英語でもなかった。

 

 テントで一人になった後、疲れ切っていた私はいつの間にか寝てしまった。起きると、誰かがかけてくれたらしい毛布に包まっていた。テントの中が仄明るい。足元を見ると、先ほどの女性が座っていた。食事、と一言言われて、既に夜であることに気がついた。慌てて毛布を畳み、外に出ると、真っ黒な視界の中に、淡く空が浮かび上がっていた。星だった。真っ黒な大地と山の上で、空が僅かに明るい。
集落の人たちと一緒に食事をした。彼女とその家族の名前も教えてもらった。どれも本当においしかったけれど、白くて酸っぱい飲み物だけは、飲みきれず、隣の子に分けてしまった。楽しくて仕方がない、その裏で、私の無力と無知と愚かさが、胃からせり上がってくるような気がした。食べ終わってから、私は何度も頭を下げて、テントを後にした。  

 

  戻る途中、星が美しい、今までにこういうものを見たことがない、と私は彼女に言った。ここに来る人は皆そう言うと彼女は言った。テントに戻ってからしばらくして、彼女が私を呼びに来た。ついていくと、地面で火がパチパチと火が燃えていた。2人で火のそばに座って、ずっと火を眺めて、時々空を見上げた。もしかして、私が外で空を見られるようにしているのだろうか、だとしたら、貴重な燃料を使ってしまっているのではないか、と不安になった。 
 燃えるもの、と彼女は言った。
 私は何かしてもらうばかりで、私からは何もしていない。咄嗟に、リュックの中にあるノートを一冊渡してしまった。暗くて表紙が見えない。差し出してから、手が震えた。彼女はそれには気付かずに、そのノートを火にくべた。
 ノートが火に飲み込まれた。挟まっていたプリントが一瞬で灰になる。「上」のノートだったらしい。火の暖かさが目に沁みる
 そういえば、昔、宿題を燃やして暖を取りたいと思ったことがあった。遭難した子供が宿題を燃やして寒さを凌いだというニュースを聞いて、ひどく惹きつけられた覚えがあった。私は持っていた手帳もついでにくべてしまった。

「寒い」、と彼女が言った。エルの音がインド英語のアールのようだった。
「ええ」と私は答えた。
「私たちしかいない」
「ええ」
 鳥肌の立つような冷たさと、苦くて酸っぱいどんよりしたものが心の内を満たした。これは何だろう、私は問いたい。でも、言葉にならず、語彙が出てこない。空を切って、広大な大地の礫が、出かかった何かを吸い取ってしまう。
 私は口を閉じて空を見上げた。煙が立ち昇って闇に吸い込まれていく。空は雲一つなく、星だけが私たちを祝福していた。